221回 「警視庁見学と江戸・東京の事件現場を巡る」を実施しました

健康歩こう会では、日頃体験できない体験をするコースも入れておりますが、10月例会(第221回)は、二つのテーマのウォーキングを実施しました。
〇 一つは、警視庁指令センターの見学
〇 もう一つは、江戸・東京の事件現場を巡る
というウォーキングです。
快晴のこの日、地下鉄桜田門駅には41名の参加者が集合しました。

江戸城桜田門を背景に集合写真

連絡事項、ウオーミングアップ体操の後、警視庁の見学開始の時刻までを利用して、米沢藩上杉家の歴史を聞きました。目の前には、警視庁の建物が見えますが、その横には煉瓦造りの法務省があります。米沢藩上杉家は現在の法務省の煉瓦庁舎の場所にありました。この屋敷が事件にかかわったことはありませんが、赤穂浪士事件で有名な吉良上野介の正室は上杉藩4代目綱克公の妹です。

また、ひっ迫する藩の財政を立て直したことで、名君として名高い上杉鷹山公は、米沢藩上杉家の10代当主です。
そんな話をしているうちに警視庁の見学の時刻になりました。みんなで警視庁に向かいます。

警視庁庁舎

警視庁では、ビデオを中心とした警視庁の活動の紹介と、通信指令センターの見学でした。
通信指令センターでは、東京23区内から発信される110番通報を受信して、的確に最寄りの警察署、交番、パトカーなどに指令として伝達します。入電件数は一日4800件、(18秒に1件)になるそうです。電話対応者の横にはランプがついていて、緑色は通常の対応、赤色のランプは緊急・重大な事案の場合だそうです。相談内容では交通事故発生の連絡、無断駐車の取り締まりを要望する電話などが多いとのことです。

警視庁を出た一行は、集合場所の「桜田門前」広場に戻りました。
安政7年(1860)有名な「桜田門外の変」が発生した現場です。桜田門外の変は幕府最高権力者の井伊直弼(大老)がこの現場で暗殺された事件です。時は幕末、ペリーなど外国から黒船がやってきて、開国するか、鎖国を続けるかの論争激化への中で、大老は日米修好通商条約を締結してしまいます。これを朝廷(天皇)の意思に反するものとして批判する攘夷派も多くおりました。井伊大老は批判するものを弾圧する、いわゆる「安政の大獄」を引き起こしました。これに反対するものが多かった水戸藩の一部脱藩藩士が、江戸城桜田門外で井伊大老を襲撃して殺害する事件を引き起こしました。江戸幕府の最高権力者と、徳川幕府の御三家の一つ水戸藩が争ったこの事件は幕府の権力を失墜させることとなった事件です。

日本水準原点

一行は、桜田門から井伊家の屋敷があった場所まで約500mを歩きました。当日の大老の行程の逆ですが、大老が屋敷を出て事件に遭遇するまで意外と近いことを実感しました。この場所は現在は「憲政会館」となっていますがこの中に「日本水準原点」があり、説明を聞きました。日本全国の標高を決める基となるもので。明治24年に設置されました。当時の隅田川の河口であった霊岸島(現在の中央区新川)の潮位を約6年間毎日測定して、その平均値を標高ゼロメートルと定め、千代田区のこの場所に標高24.5メートルの基準点を設置しました。その後、関東大震災、東日本大震災で地盤が移動したことにより、現在は23.39メートルとなっているそうです。

一行は、国会議事堂の正門前を通過して日比谷公園に向かいます、日比谷公園前の道路では、明治34年に元国会議員の田中正造が足尾銅山の鉱毒事件を改善してもらいたく、明治天皇に直訴をしようとしたが失敗した場所です。足尾銅山から流れ出る鉱毒が渡良瀬川に流れ、下流の農民が被害を訴えていました。この地方出身の国会議員だった田中正造は農民側に立って政府を追及していましたが、時は、日清・日露戦争の時代。銅の生産は国力増強に必要不可欠な事業だったことから対策はなおざりとなっていました。田中は国会議員を辞職し、直後に明治天皇の馬車列に直訴状を持って駆け寄りましたが警官に制止され、直訴を果たすことが出来ませんでした。しかしこの事件がきっかけで鉱毒事件が一躍、全国に知られるきっかけとなりました。

日比谷公園の横には現在のプレスセンタービルがあります。このビルには都新聞社があり、大正2年に民衆に囲まれて放火された事件がありました。軍備拡張要求を拒否した第二次西園寺内閣が陸軍の反発を受けて倒れると、陸軍出身の桂太郎が後継首相となりました。しかし、こうした陸軍、幕閣の横暴に国民や経済界も怒り、憲

政擁護運動が起きます。群衆は警察や交番を襲撃、投入された騎馬警官も群衆の勢いに逃げ帰るくらいでした。群衆は御用新聞と呼ばれた「都新聞社」(現・日本プレスセンタービル)に放火、そこから銀座の国民新聞社に向かい、投石などをしましたがこれに対し防戦側の社員は活字を溶かした鉛を撒き、日本刀やピストルで応戦し、襲撃側に死亡者が出たといいます。運動は翌年にかけて盛り上がりを見せ、数万という群衆が国会を包囲し、ついに桂内閣は総辞職しました。これを「大正政変」といいます。

日比谷公園の道路を挟んだ向かい側は日比谷シテイとなっていますがここでも事件がありました。第二次世界大戦の終結に当たり、昭和20年8月9日に行われた御前会議で、昭和天皇の最終判断で「ポツダム宣言を受諾して降伏する」ことが決まりましたが、天皇制の維持が保証されていないとして戦争継続を主張する陸軍の将校が反乱を起こしました。日比谷シテイの場所はNHKがあった場所で、昭和天皇が全国民に向かって戦争終結(敗戦)を呼び掛けた玉音放送を阻止しようと、玉音放送の録音原版を盗み出そうとする事件がありました。侍従らが巧みに玉音版を隠したため見つけ出すことが出来ず、玉音放送阻止は失敗しました。

日比谷公園の中には、「日比谷公会堂」があります。ここでは、昭和35年に「浅沼稲次郎日本社会党党首」が暗殺される事件がありました。この日、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(東京選挙管理委員会・公明選挙連盟<現・(公財)明るい選挙推進協会>、NHK・日本放送協会が主催)

日比谷公会堂

が行われていました。浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めました。自民党の選挙政策についての批判演説でしたが演説を初めて5分くらいしたころ、17歳の右翼青年・山口二矢(やまぐちおとや)が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅沼委員長の胸を2度突き刺した。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していました。

日比谷公園は仙台藩伊達家の上屋敷があった場所ですが、戦国時代の風雲児・独眼竜で有名な伊達政宗は寛永13年(1636)五月弐四日(関ヶ原の戦いから36年後)この場所、参勤交代の折に江戸・仙台藩上屋敷で亡くなり70年の生涯を終えました。
伊達藩上屋敷は、伊達政宗が徳川家康から拝領した屋敷で、伊達藩は、60年間にわたり上屋敷として使用しましたが、その後、上屋敷を汐留に移しています。

日比谷公園を出た一行は、東京駅方面に向かいます。帝国劇場の隣には「DNタワー」があります。戦時中、ここには東部軍管区司令部がおかれていました。終戦後GHQに接収され総司令部本部として使用され、マッカーサーが使った部屋が現在も保存されているそうです。しかし一般には公開されていないので、見学することが出来ません。このビルは東京都選定歴史的建造物に指定されています。

一行は東京駅に向かいますが途中、三菱UFJファイナンスの本社ビルがあります。ここは旧三菱銀行本社だったところで、昭和7年(1932)の五一五事件の際、襲撃されました。海軍の過激将校を中心に陸軍士官学校生らが首相官邸などを襲撃し、周辺の変電所なども襲撃して東京を暗黒化しようとする計画の事件です。犬養毅(つよし)首相が官邸で銃撃で死亡しました。内大臣邸や警視庁も襲撃されましたが、首都を混乱に陥れて軍事政権を樹立するという希望は実現しませんでした。

東京駅では二人の首相が暗殺されいていますが、東京駅に向かう前に向かいにあるJPタワー(KITTEビル)の屋上から東京駅丸の内駅舎を眺めます。

大正10年、京都に向かおうと、東京駅を訪れた原敬首相が暴漢に刺され、首相は即死しました。現場の床面には目印の石がはめ込まれ、説明の看板もありますが、気に留める人はほとんどいないで通り過ぎてゆきます。

9年後の昭和5年(1930)にも浜口首相がピストルで襲われ、その傷がもとで翌年亡くなっています。事件現場のホームは駅の改造で通行できなくなったので、その直下のコンコースに目印がおかれています。丸の内中央口と八重洲中央口を結ぶ中央通路のほぼ真ん中。新幹線中央乗り換え口の階段の近くです。説明の看板と目印のタイルがあります。

これで本日のコースは終了です。東京駅の中で解散となりました。

参加された皆さん、お疲れさまでした。

文章作成  柿本政昭(3256)
写真撮影  北村卓士(3038) 込山廣明 (5871)

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