第223回 2018年12月例会「ディープな銀座を探検」の実施報告

 

銀座4丁目のランドマーク「和光ビル」を背景に

健康歩こう会では参加して良かった、楽しかった、新しい発見があった、感動したと思って頂けるコースを選んでいます。
12月例会は、ディープな銀座(5丁目~8丁目)を探検しました。歴史と伝統を踏まえながら日本一洗練されたおしゃれな街で、常に新しいものを求める街、海外の一流ブランドショップが軒を連ねる銀座。今回はこのような店ではなく、何代も続く老舗や日本で初めて〇〇を始めた店などを訪ねました。

12月15日土曜日のこの日は、晴れているけど寒い風が吹いているという冬ばれの天気の中、元気な会員36名が銀座5丁目にある「数寄屋橋公園」に集合しました。銀座は京橋に近い1丁目から、新橋に近い8丁目まであり、この間まっすぐ歩くと約1.1Kmという、広いとは言えない地域に多くの有名店、老舗が密集しています。今回は5丁目から8丁目まで南半分の地域を探検します。

まずは柿本会長からの連絡事項伝達のあと、ウォーミングアップ体操です。今日は寒いのでリーダーの有田幹事から特別に暖かくなる体操も取り入れてもらい、出発準備が整いました。以下は、探検した主な場所です。

かつての銀座は島だった
銀座は四方を運河に囲まれていた島でした。運河はすべて埋め立てられ、現在は首都高速道路になっています。

銀座の大火
明治2年、明治5年と2度に及ぶ銀座の大火で、江戸時代の銀座の街並みはすべてなくなってしまいました。その後、近代的な街並みを作ろうという計画で、煉瓦造りの近代的な街並みが出来上がりました。我が国初めて歩道と車道が分離されたり、ガス灯で照明されたりと、当時の庶民をびっくりさせる街並みが出来上がりました。しかし、この煉瓦造りの街並みも大正12年に発生した関東大震災で崩れ去ってしまいました。

銀座5丁目
泰明小学校
明治11年(1878)創立。 大正12年(1923)に発生した関東大震災によって焼失した木造校舎に代わり、昭和4年(1929)に鉄筋コンクリート造り3階建校舎として再建。震災の教訓から、通常の壁厚が15cm程度であるのに対し、22cmを有する堅牢なつくりとし、第二次世界大戦の東京大空襲の爆撃にも耐え抜き現在に至っています。近年ではイタリアの有名ブランドの制服を採用したことがニュースで紹介されました。卒業生には「朝丘雪路」「池田彌三郎」「和泉雅子」「加藤武」「近衛文麿」「殿山泰司」「中山千夏」などの名を見ることが出来ます。

島崎藤村、北村透谷記念碑
明治を代表する詩人、評論家、思想家として知られる北村透谷は、明治16年泰明小学校を卒業しました。
島崎藤村は、明治14年(1881)、兄の秀雄、友弥とともに上京し、長姉の嫁ぎ先、に寄留し銀座の泰明小学校に通いました。

銀座千疋屋
日本初のフルーツパーラ―を開業しました。大正12年(1923)には日本初のフルーツポンチが誕生したといわれています。

バールパン(Lupin)
昭和3年(1928)に創業の銀座を代表するバーで、太宰治、永井荷風、泉鏡花、菊地寛、直木三十五、坂口安吾、遠藤周作、開高健など数え切れないほどの作家が出入りした有名な文壇バー。秋山庄太郎、林忠彦など多くの写真家も出入りしたそうです。太宰治を撮った林氏撮影の写真が店内に飾られています。

鳥ぎん
昭和28年(1953)に創業の焼き鳥と釜飯のあるお店。焼き鳥を始めとした絶品鶏肉料理の中でも、看板メニューとなっている「釜飯」は、まさにここでしか味わえない美味しさで、ランチ時にはその釜飯に焼き鳥が付くセットが大人気です。

三愛ドリームセンター
昭和21年(1946)銀座4丁目の西南角、旧六十九銀行の跡地に、2階建てのビルが新築され、「三愛ドリームセンター」と名付けられました。建てたのは、コピー機、カメラなどのメーカー「リコー」の創業者・市村清でした。当時は文房具や食料品など生活用品の販売でしたが昭和25年(1950)、戦後の食糧事情が解消したとして「三愛」は婦人服専門店となり、銀座4丁目のシンボルとなりました。昭和30年(1955)創業10周年を迎え、「水着の三愛」として水着の販売も開始しました。
昭和38年(1963)現在の形に改装されました。改装に当たり、市村は円筒形で総ガラス張り、屋上はきらめく広告塔とする斬新なデザインとしました。(設計は林昌二)同年1月31日午前0時、フランキー堺のドラムに合わせ、1階から順次点灯、屋上には「三菱電機」のネオンがきらめいた。(現在は「リコー」)同日の披露パーティには三笠宮殿下が来臨され、三愛ドリームセンターの開業は、まさに国民的行事となりました。ビルの完成により、銀座の夜が数倍明るくなったと報道され、現在でも銀座のランドマークとして輝いています。
三愛ドリームセンターの前の街路で集合写真を撮りました。

銀座若松
明治27年より、創業から同じ場所で営業を続けています。あんみつ発祥の店です。

狩野画塾跡
徳川幕府のお抱え絵師、江戸狩野派の画塾がありました。

三原小路 東間(あずま)稲荷
東間(あずま)稲荷は戦後になり付近で相次いだ火災を鎮めるために置かれたという。祀られていたお稲荷さんが戦災で焼失したことが災いの元だったということで、お稲荷さんを祀ったところ、ピタッと火事が収まったといいいます。

銀座6丁目
銀座凮月堂
寛政時代、松平楽翁公から賜った商号を誠実に守り、味の追及、技術の開発、サービスの向上に努めながら、健康に良く美味しい和菓子を製造販売している老舗です。初代の血統を受け継いでいるのは、上野凮月堂ですが、暖簾分け制度の導入で両国凮月堂、神戸凮月堂凮、甲府凮月堂凮などが現存しています。

石川啄木歌碑
石川啄木(1885年~1912年)は明治42年から明治45年まで、27歳でこの世を去るまでの3年間、東京銀座の朝日新聞社に勤務していました。
この碑は、啄木没後60周年を記念して銀座の有志により昭和48年に建てられました。

大和屋ワイシャツ店銀座本店
明治9年(1876)横浜関内の弁天通りに日本で最初のワイシャツ店を開業しました。最初のうちは、港にあふれる外国人相手に商売をしていました。横浜大空襲で焼け、昭和28年(1953)に銀座で再興しました。

空也もなかはいつも売り切れ・・

空也もなか
明治17年に上野・池の端に創業した「空也」。戦災に遭い、昭和24年に銀座の並木通りに移転し、現在に至ります。できる範囲で良いものを作り、できるだけ安くお客様にお届けするためにも、その日に作ったものを全てその日に売り切りたいとのことで、すぐに売り切れになることで有名ですが、店頭には「本年中の販売分はすべて売り切れています」の張り紙がありました。

交詢社ビル
明治13年(1880)に福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブです。慶應義塾の同窓生を中心に社則を創案し、交詢社発会式の際は24名が常議員となりました。

重厚感漂う交詢社

関東大震災で被災した後の昭和4年(1929)に建てられたましたが、平成16年(2004)に建て替えられました。ファサードが保存され往年の優美な姿が残されています。

ギンザ6
松坂屋銀座跡地の複合施設の名称がギンザ シックス(GINZA SIX)です。「最高に満たされた暮らし」をコンセプトに飲食からビューティ、ファッションまで全241テナントを集積する商業施設と、オフィス、文化・交流施設「観世能楽堂」などからなる銀座エリア最大の複合施設となっています。そのうち半数以上の122店舗が旗艦店、11店舗が日本初出店、4店舗が世界最大級、65店舗が新業態となります。

商法講習所(一橋大学)発祥の地
明治8年(1875)森有礼(ありのり)が銀座に「商法講習所」を開設したのが、一橋大学の出発点です。

佐久間象山塾跡
江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。

東京商工会議所発祥の地
明治11年(1888)日本で初めての商工会議所である東京商工会議所が明治11年(1888)3月12日この地に創立しました。

銀座7丁目
資生堂
明治5年(1872)漢方薬が主流であった当時、初めて西洋式調剤薬局が開業しました。明治21年(1888)日本初の練歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」を発売しました。当時は「粉歯磨き」が主流でした。

とんかつ梅林
昭和2年(1927年)、銀座で初めてのとんかつ専門店として開店しました。「ひと口カツ」や、従来のソースに飽きたらず、とんかつに合った独自の「中濃ソース(とんかつソース)」を考案しました。

豊岩稲荷
ビルとビルの間にひっそりと祀られているお稲荷さんです。江戸時代から続く縁結びと商売繁昌の神社。明智光秀の家臣が主家の再建を願って祀ったという伝説が残っています。

銀座ライオン
明治32年(1899)にサッポロビールの前進である日本麦酒が銀座に日本初のビアホール「恵比寿ビアホール」を開店しました。

このライオンにはよく来たよ

昭和9年(1934)4月8日に2号店として誕生したこの「ビヤホールライオン銀座七丁目店」は、今なお創建当時のままの姿を残すビヤホールです。

銀座8丁目
今春(こんぱる)屋敷跡
幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられて、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。金春の屋敷は現在の銀座八丁目六・七・八番地全体を占めていましたが、後にこの屋敷は麹町(千代田区麹町三・四丁目)に移りました。跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。

月光荘
画材専門店で、大正6年(1917年)に創業して以来、色彩の持つ純な美しさ、透明感を追い求めています。店名は歌人の与謝野鉄幹、妻の与謝野晶子と創業者 橋本兵藏が名付けました。昭和15年(1940)、コバルトブルーの技法を発見し、純国産第一号の絵具を誕生させ、 その後、コバルト・バイオレット・ピンク(月光荘ピンク)を発明しました。

金春通り煉瓦遺構の碑
明治5年(1872)江戸城和田倉門内、兵部省(旧・会津藩邸)から出火した火事は瞬く間に銀座一円を焼き尽くす大火事になりました。この大火を機に

銀座煉瓦の碑

銀座一帯を、日本を代表し文明開化を象徴する西洋風の街とすべく、煉瓦街の建設を命じ、大火から5年後の明治10年(1877)全街区が完成しました。10金春屋敷の跡地で当時の煉瓦が発見され、それを記念して「金春通り煉瓦遺構の碑」が作られた。発掘された煉瓦が積み重ねられ碑文が埋め込まれ、基台には銅版画が埋め込まれています。

金春湯
文久3年(1863)、金春湯は銀座に開業しました。当初は木造建てでしたが、昭和32年(1957)に改築し、ビル内に銭湯を構える現在の形になりました。改築当時はビル内に銭湯を構えることは珍しいことでした。また、周囲に高い建物がなく、このビルが一番高い建物でした。

銀座九兵衛
明治11年(1936)創業。陶芸家北大路魯山人がひいきにしていた寿司店。「イクラを寿司にして」との注文で軍艦巻きが考案されたといわれています。軍艦巻きの発祥の店です。

資生堂パーラー

歩行者天国で一休み

明治35年(1902)資生堂薬局内に日本初のソーダ―水やアイスクリームの製造と販売を行う「ソーダファウンテン」が開設され、これが「資生堂パーラー」に発展した店です。

カフェ・バウリスタ
創業当時からブラジル産のコーヒー栽培を奨励し、現地への投資も行い、ブラジル産コーヒーを提供しています。銀座へ行ってブラジル・コーヒーを飲むという意味で「銀ブラ」という言葉が生まれたという説もあります。

博品館
玩具店ですが、8階には併設された中劇場があります。小規模のミュージカル公演などでよく利用されています。古くからの歴史を持っており百貨店の原型とも言われています。

銀座柳の碑
銀座の柳は明治10年~20年頃銀座通りに植えられて、以来大正9年撤去、昭和

銀座柳の歌の碑

6年復活の変遷を経ながら数多くの詩歌にうたわれ、人々に親しまれて銀座のシンボルとなった柳も樹勢の衰えもあって昭和43年歩道の大改修に当たり移植のやむなきに至りました。

バーボルドー
銀座で一番古いバー、しかし現在取り壊されてしまい、現在は更地になっています。山本五十六が好んで座っていたという席は、2階だったそうです。

芝口御門跡
宝永7年(1710)新井白石の指導で「芝口御門」という石垣で囲まれた城門が建設されました。朝鮮からの使節団をお迎えするために設けられた門でしたが,勿論使節団に江戸はすごいところと見せつけるためでもあります。残念なことに15年後には門が焼失してしまいました。

中銀カプセルタワービル
黒川紀章が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)です。1972年(昭和47年)竣工。それぞれの部屋の独立性が高く、部屋(カプセル)ごとに交換することも、技術的には可能な設計になっていますが、実際には一部のカプセルのみを交換することが困難であることなどから、現在に至るまで一度も交換されたことはないそうです。

検査業務発祥の地
明治9年(1876)工部省電信寮の碍子試験所があった場所。同所発足の際、電信用の碍子を電気試験したのが物品購入検査という作業の始まりです。

浜離宮前踏切
ここにはかつて東京の「食」を支えた極めて重要な鉄道が通っていました。
通称・東京市場線。1935(昭和10)年2月、築地市場の開場と同時に開業した長さ1.1kmの貨物線です。

土橋
丸太を隙間なく並べて橋面を作った場合、橋面が凹凸になります。そのままでは歩きにくいので、そこに土をかけて踏み固めると、へこんだ部分に土が詰まって平らになり歩きやすくなります。これが土橋です。江戸時代まで日本の川にかかる橋の圧倒多数は土橋で、かなり長い橋もこの方式で作られました。

首都高速 KK線
首都高として溶け込んでいますが、KK線のエリア内だけでインター間を乗り降りしている分には料金はかかりません。「KK線」の下に入っている飲食店の賃貸料によって稼働しています。開業した1959年から変わらずこの運営方法です。

静岡新聞・静岡放送東京支社ビル
丹下健三の設計による建物として知られる。丹下が、弟子の磯崎新のプロジェクトに触発されたもので、将来的には複数のコアを建て、それらを空中に渡した床で連結することを考えたものですがこのビルの建設だけで終わってしまいました。

これで本日の銀座探検は終了です。
JR新橋駅前の広場で本日の終了と、年間の締めを行いました。皆勤賞・精勤賞の表彰や来年度のコース予定などについての案内がありました。

この後、有志による忘年会を実施し一年間の思い出話に花を咲かして会員同士の絆を深めることが出来ました。

文章作成   柿本政昭(3256)     写真撮影  北村卓士(3038)

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