第227回 「西郷どんゆかりの地を巡る」 例会を実施しました

いよいよ「平成」から「令和」になりました。日本にとってはまさに大きな節目の時ですが、平成最後の歩こう会例会を実施しましたので報告いたします。

西郷さんの前でみんなにっこり・・・  はい「チーズ」

昨年のNHK大河ドラマで放映された西郷隆盛(西郷どん=せごどん)も時代の節目を生きた一人です。西郷がいなければ明治維新は出来なかったといわれるくらい大きな足跡を残しましたが、4月の健康歩こう会ではその西郷どんが江戸・東京で活躍した現場を訪れます。
西郷どんが活躍したゆかりの地は江戸・東京にはたくさんあります。すべての場所を一日で歩くことはできませんので、今回は、主要な場所を選んで訪ねました。それでも歩く距離が長くなりますので、地下鉄を利用して歩きやすいコースにしました。
快晴にめぐまれた4月20日集合場所の浅草・吾妻橋たもとには、37名の元気な会員が集まりました。

快晴の土曜日となり、吾妻橋付近は観光客でにぎわっているので、まずは第1のポイント、墨田区役所の横にある勝海舟像の前に移動します。
歩こう会会員で、先日ご逝去された小堺さんのご冥福を願って、参加者全員で黙禱をしました。有田幹事のリードによる準備体操のあと、本日のコース概略の説明があり、第1ポイントの説明です。

勝海舟像
勝海舟は、西郷隆盛の5歳年上になりますが、双方お互いにその人柄にほれ込み、信頼しあっていました。そんな相互の信頼感があったから江戸城無血開城が成し遂げられたのではないでしょうか。
本所生まれの幕末の雄・勝海舟(1823年~1899)の銅像は「海舟の功績を後世に残すために全身像を建てよう」とする市民グループ「勝海舟の銅像を建てる会」により全国規模で賛同者から募金が集められ、銅像が同会より墨田区に寄贈されました。
この銅像を墨田区の新しい歴史的観光名所にしたいとの願いから墨田区役所前うるおい広場の緑地内に2003年に建立されました。新しい日本を思い描き、アメリカを目指した壮年期がイメージされているそうです。

東本願寺

東本願寺
1651年(慶安4年)、東本願寺第12世教如が神田に江戸御坊光瑞寺を建立したのを始まりとしますが、明暦3年(1657)、明暦の大火により焼失し、浅草に移転してきました。明治元年(1868) 渋沢成一郎や天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする「彰義隊」が結成され、その拠点となったのがこの東本願寺です。 関東大震災、第2次世界大戦の空襲で、本堂を焼失しますが昭和28年(1953)本堂を再建して荘厳な社殿が整いました。

西郷さんは今日も我々を見守っています

西郷隆盛像
明治31年(1898)に高村光雲によって制作されたものです。(高村光雲は皇居前広場の楠木正成像なども手がけています)2018年の大河ドラマ「西郷どん」でも第1話のオープニングは銅像の除幕式から始まりました。
上野から東京を見守っている姿は、今では東京のシンボルのひとつとなっていますが、旧幕府軍の一部で構成された彰義隊が上野の山に立てこもった際、西郷隆盛ら官軍が攻め立てた場所であることから上野に設置されたようです。
西郷隆盛は西南戦争を起こしたことで「逆徒」という扱いを受けましたが、明治天皇から明治22年(1889年)「正三位(しょうさんみ)」の位を追贈され名誉回復がなされました。(明治2年に一度「正三位」に叙せられていますが、これを辞退しています)

彰義隊の墓「戦死者の墓」と書かれています

彰義隊の墓
二条城で大政奉還を宣言して江戸城に戻った徳川慶喜は、1868年2月11日に新政府に恭順して、翌2月12日には上野・寛永寺に蟄居しました。
4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜は水戸へ移りますが、将軍を警護していた渋沢成一郎や天野八郎ら、旧幕府側の軍勢「彰義隊」は、引き続き寛永寺に留まっていました。
この時、江戸の治安を担当していたのは、西郷隆盛でしたが、そのやり方が手ぬるいとして、解任されます。代わりに大村益次郎が京都からやってくると、上野で彰義隊と武力衝突が発生し、1868年5月15日、新政府軍は上野を包囲して、1日で彰義隊を撃破しました。
この時、彰義隊105名、新政府軍56名が戦死したとのことです。戦闘後、上野には彰義隊士の遺骸が残りました。徳川家の菩提寺であった芝増上寺や縁故者等が引き取りを申し出ましたが、官はこれを容れなかったとのことです。南千住(現:東京都荒川区)の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎がこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬しました。円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒末松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めましたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続いていました。 1874年(明治7年)に元彰義隊士の小川興郷などの願が許可され、翌1875年(明治8年)に上野で彰義隊の墓が建立されました。明治14年(1881)には旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」を碑銘とする墓碑が新たに加わりました。

 

このあと、一行は地下鉄で「小伝馬町」まで移動します。

 

吉田松陰終焉の地の石碑

伝馬町牢屋敷跡
江戸時代の刑には現在の懲役や禁固に類する処罰が存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し、また死刑囚を処断する現在の拘置所に近い性質を持った施設です。
所在地は日本橋小伝馬町一帯に設置され、2618坪(約8639平方メートル)の広さがあったそうです。現在はその敷地のほとんどが「 中央区立十思(じゅっし)公園」になっています。
常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようです。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。
高野長英や吉田松陰らも収容されていましたが、吉田松陰はこの地で処刑されました。
吉田松陰は、西郷の2歳下です。西郷隆盛との接点はありませんが、吉田松陰は萩の松下村塾で久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していました。一方西郷も薩摩で教育に力を注いだことは有名です。ともに明治以降に活躍する人材を教育しました。

ウォーキング風景

西郷隆盛の屋敷跡
西郷隆盛は函館戦争が終了すると新政府からの残留要請を断り故郷の鹿児島に帰り、のんびりとした生活をしていました。

西郷の屋敷跡は今は日本橋小学校となっています

そんな西郷を新政府がほっておくわけはありませんでした。弟の西郷従道からの説得で明治4年(1871)に要職の参議に就任します。
新政府の参議になり岩倉使節団の留守役を務めながら、廃藩置県などの新制度を制定させています。帰国した岩倉使節団の面々と意見が合わず、明治6年、鹿児島に戻るまでの2年間、現在の中央区立日本橋小学校あたりの広大な屋敷に住んでいました。(43歳から45歳)
2600坪もある広い屋敷には書生を15人ほど住まわせ、下男を7人雇い、猟犬数頭を飼っていたといわれます。

この後再び地下鉄を利用して、「三田」駅まで移動します。

 

芝さつまの道

芝さつまの道パネル展示

NEC本社がある場所からその北側にあるセレステインホテルのあたりは薩摩藩の上屋敷がありました。薩摩藩上屋敷の敷地面積は2万2000坪と広大だったそうです。「芝さつまの道」のパネルがある場所は、屋敷の中央に近いところと言われています。

薩摩藩江戸上屋敷跡
NEC本社ビルの片隅に「薩摩藩屋敷跡」と書いた石碑があります。2018年大河ドラマ「西郷どん!」では、西郷隆盛が薩摩藩から島津斉彬のお供で江戸に出てきたときにここに住んでいる設定になっています。約1,000人の薩摩藩士がここで暮らしていたと紹介されていました。薩摩藩上屋敷は薩摩藩の江戸での活動の中心地となっていて、薩摩藩にとって重要な場所でした。薩摩藩第11代藩主で名君と言われた島津斉彬も幕末にはここに住んでいました。
薩摩藩の江戸屋敷は三田の上屋敷のほか、中屋敷(幸橋門内)、下屋敷(高輪)、西郷・勝の会談が行われた蔵屋敷(田町)などがありました。幸橋の屋敷は、現在は帝国ホテルになっています。江戸城に登城する前、衣装を整えたことから装束屋敷とも呼ばれていました。ちなみにこの装束屋敷の場所は明治になってから「鹿鳴館」が建設されたところです。高輪の下屋敷は現在は高松宮邸となっています。
なお、江戸初期においては、江戸城に近い幸橋門内(現・内幸町)の屋敷のほうが上屋敷でした(大名家の上屋敷、中屋敷などの区別は時期によって変わることがあります)
篤姫 (あつひめ)が13代将軍家定に輿入れするために江戸入りしましたが、篤姫は三田の薩摩藩上屋敷に入り江戸暮らしを始めましたが、安政2年(1855)10月に安政の大地震が起こって屋敷が倒壊したため、渋谷の別邸に移りました。

説明ポイントでの風景

西郷・勝海舟会見の地
薩摩藩上屋敷があった場所からJR田町駅に向かうと、三菱自動車のディラーがあります。この場所が薩摩藩の蔵屋敷があった場所です。海岸はJR山手線が通っている場所あたりにありました。船で物資を荷受けするための蔵屋敷がここにあったということですが、東征軍の江戸城総攻撃を目前にひかえた慶応4年(1868年)3月14日、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)で行われました。

蔵屋敷のあったところ

新政府軍の江戸城総攻撃は、慶応4年(1868年)3月15日と予定されていましたが、その直前、西郷隆盛と勝海舟の会談は2回にわたって行われ、一度目の予備会談は3月13日高輪の薩摩藩邸で、二度目は翌14日の田町薩摩蔵屋敷で行われました。(薩摩藩上屋敷は前年末に幕府側によって焼き討ちにされ焼失していた)
勝は、徳川家が降伏する条件を西郷に提示した。会談の結果、西郷は江戸総攻撃を中止、勝の案を京都に持ち帰って討議することとなり、4月4日には新政府側と徳川家の間で最終的な合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺を出て水戸へ出立し、江戸城は無血開城されました。
この会談の際に、勝海舟は西郷隆盛を連れて、愛宕神社まで登り、「江戸の街を燃やしちゃいけねえ」と、説得したとも言われています。

これで、本日のウォーキングは終了です。次月の「草加宿の街並みを巡る」コースの案内があり解散しました。

参加された会員はそれぞれ、大河ドラマのシーンを呼び戻されたようで、説明にも熱心に聞き入っておられ、満足された様子だったのは案内をさせていただいた者としてもよいコースだったと感じられる一日でした。

有志による懇親会は、いつになく盛り上がりを見せ、楽しい時間を共有することが出来ました。

懇親会風景

 

文章作成  柿本政昭(3256)  写真撮影  北村卓士(3038)

 

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