第226回 3月度例会 [天皇御陵] から「八王子千人同心」 へ実施報告

健康歩こう会では、参加して良かった、楽しかった、新しい発見が出来たなど会員皆さんに喜んで頂ける企画を実施しております。
3月度月例会は、天皇退位で話題に為っているタイミングで、東日本唯一の天皇御陵である「多摩御陵」「武蔵野御陵」を参詣した、実施報告を致します。
3月30日(土)「花冷え」のする中、JR 「高尾駅」に24名が参集しました。

天皇御陵ご参拝集合写真

冒頭に会長の挨拶が有り、「高尾駅」を出発しました。駅前の「甲州街道」を八王子方面に向かうと、 道路の両側に「銀杏の木」が続いて居ます。 これは、天皇陵が建設される折に、高尾駅から追分交差点まで4kmに渡り、770本の「銀杏の木」が植樹されたものでした。

いちょう祭り
八王子市では11月第3土日の2日間 「いちょう祭り」を開催しており、イベントも多く、昨年は来場者数 52万人が、来場したとの発表が有りました。
子供に人気の「いちょう祭り・通行証」は、各町内が関所を設け、通行証に町名入りの「焼き印」を押し、12ヵ所集めると記念品が貰えます。
他に、12個のイベントが 開催されます。

一行は 「御陵参道」前に着きまして、右側の「 JR線路 際の広場」を見ながら
説明を聞きました。 ここは「 東浅川駅」が有った場所です。

元・東浅川駅
「 浅川駅(現 高尾駅)」に天皇陛下がお越しになると、大混乱が予測される事から、国鉄は「御陵参道」に面したこの地に 昭和2年(1927年)2月7日 下り線路から上り線路を跨ぎ、専用線路を引き込み、社殿風な駅舎を建立し「皇族専用駅舎」を設置しました。 その後、高速道路の普及により自動車での参詣が主流となり、昭和35年(1960年)9月に「皇族専用駅舎」は撤去されました。 現在は「いちょう祭り」の「全国各地の物産展」の メイン会場に為っています。

愈々「御陵参道」です。右手の「陵南児童公園」の先に「南浅川橋」が有ります。ここから、南浅川の両側に桜が植えられ、毎年見事ですが都内の満開の桜情報により当地の“満開の桜”を期待しましたが、都内より3~5度温度が低い事が影響して、ソメイヨシノ桜の咲き始めに遭遇しました。 先に進むと右折の出来る“交差点”に出ます。

京王帝都電鉄・御陵線 「元・多摩御陵前 駅」
この交差点の右側20m先の場所が,京王帝都電鉄・御陵線の「多摩御陵前」駅でした。 昭和2年(1927年)2月に御陵が出来ると東北、北海道から国民の参拝が増加し、対応の一環として御陵に直結させる路線を引き、4年後の昭和6年(1931年)3月に運行させました。 国鉄駅まで歩かずに東京へ行ける利便性で歓迎されましたが、戦争で利用者も無くなり運休と為り、昭和39年(1964年)に廃止されました。
御陵に到着です

多摩御陵 正門
大正天皇が崩御されて東京の国有地を検討の結果、万葉集に「多麻の横山」と謳われていた事からも選定されましたが、9軒の農家と「東照寺」「長泉寺」の民間墓地が有り、立ち退き交渉で移転戴きまして、建設に着手しました。
「東照寺」の敷地は正門広場になり、「長泉寺」の敷地は駐車場に為りました。御陵墓の面積は47万平方メートル有り、陵の形状は「上円下方墳」に為っており墓地の正面から陵に至るまで、京都から取り寄せた「北山杉」が120本 植えられ、並木道が形勢されています。

貞明皇后陵
貞明皇后は、大正天皇の皇后様で 明治17年(1884年)6月25日、九条家の4女として生まれ、九条節子(さだこ)と命名されました。 明治33年、15歳で皇太子・嘉仁(よしひと)親王と結婚し、後の「昭和天皇」「秩父宮」「高松宮」「三笠宮」の親王を生みました。大正元年「皇后」となり、大正天皇・崩御により「皇太后」となり、 昭和26年(1951年)5月17日「狭心症」により 66歳で崩御され
ました

大正天皇陵
大正天皇は、明治12年(1879年)8月31日午前8時20分 「青山御所」で生誕し明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)と命名されました。 皇室の風習により半年後に中山忠能の屋敷に里子に出されたが、幼少期は「髄膜炎」を患って居た為に、日常生活が出来ない状況でした。 4歳に為った頃、病状も落ち着き日常生活が出来る様になり、6歳の時に「青山御所」に帰宅しましたが、明治天皇と複数の側室との間に誕生した9人の子供は逝去していたので、兄弟姉妹と接する事が有りませんでした。 7歳で学習院入学の折に「軍隊の背嚢」を侍従にせがんで、手に入れて「軍隊の背嚢」を背負って通学しました。( これが私達が小学校で背負った「ランドセル」の原型と為りました。)しかし、  健康が優れず学業に集中出来ない事から2年生で留年となり、その後も学習院の校風にも馴染めず 4年生で退学して、赤坂離宮で家庭教師によるマンツーマンの授業を受けられました。嘉仁親王は21歳の折に、15歳の九条節子(さだこ)さんと結婚されました。子煩悩で家庭的な一面を見せ、4人の男子に恵まれ、一夫一妻を貫かれました。明治45年(1912年)7月 明治天皇が崩御され「天皇」に即位されましたが、大正6年(1917年)第3次 桂内閣の折には、桂太郎総理の言いなりに詔勅を乱発し、政治的判断が不得手である事を露出して居ました。この頃から公務や心労が病気を悪化させ、公務を休む様になり、大正8年(1919年)には食事の量も減り、勅語もスムーズに読めなく為ってきました。
大正10年(1921年)11月25日、20歳に為った皇太子・裕仁(よしひと)親王(後の昭和天皇)が「摂政宮」に就任され、大正天皇は事実上の退位となり、その後 日光・沼津・葉山と転地療養されましたが、大正15年(1926年)11月に病状が悪化し 12月25日午前1時25分、静養先の葉山御用邸で実母・柳原愛子(なるこ)「二位局」の手を握ったまま、47歳で崩御されました。

昭和天皇陵

鳥居付き昭和天皇陵

昭和天皇は、明治34年(1901年)4月29日 午後10時10分 「青山御所」で生誕生されました。明治天皇から 廸宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)と命名されました。明治天皇が崩御され、父・裕仁親王が践祚した事から「皇嗣」となられ9月9日 大正3年(1914年)学習院初等科を卒業し、翌月から 東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入られます。大正5年(1916年)11月宮中賢所で立太子礼を行い「皇太子」になる。大正7年(1918年)5月7日「成人式」を行なわれ「貴族院皇族議員」となる。大正9年(1920年)19歳で「皇族指針位令」に基づき  陸海軍少佐に任官し、 11月4日天皇陛下の名代として、陸軍大演習を統監されました。大正10年(1921年)東宮御学問所を卒業し、3月3日から6ヵ月間、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・イタリアの5ヵ国を歴訪され、11月15日 20歳で「摂政宮」に就任されました。 大正12年(1923年)9月1日 関東大震災が発生し結婚式を延期されました。 同年12月27日虎の門外で狙撃されたが命中せず一命を取り留められました。大正13年(1924年)久邇宮(くにのみや)良子(ながこ)さんと結婚をされました。大正14年(1925年)23歳で陸海軍大佐に昇進されます。大正15年(1926年)12月25日 大正天皇崩御を受け「第124代 天皇」となられ、翌年 大正天皇の大喪の儀を執り行なわれました。昭和7年(1932年)1月8日、桜田門外で馬車での走行中に手榴弾を投げられたが実害無し。 既に、4人の皇女が生まれたが、昭和8年(1933年)12月23日 待望の皇子 継宮(つぐのみや)・明仁(あきひと)親王がお生まれになる。 昭和10年(1935年)11月26日 第2皇子・義宮・正仁(まさひと)親王がお生まれになる。
昭和12年(1937年)  支那事変が勃発し、宮中に「大本営」を設置し、昭和16年(1941年)12月1日 御前会議で米英との開戦を決定されました。昭和20年(1945年)3月10日 東京大空襲を受け、5月26日の空襲では、皇居が攻撃され宮殿が焼出しました。 8月10日 御前会議で、無条件降伏を決定し日本降伏の詔書を出されました。これを自ら音読されて、8月15日に  ラジオ放送で臣民に戦争終結を伝えられ
ました。9月27日、連合国最高司令官・マッカーサー元帥との会見に訪問されました。この時マッカーサー元帥は、天皇は“命乞い”に来たと思って居たが面会すると天皇は『 私をこの場で捕えても良いし、絞首刑にしても良いが、幼児を含めた日本国民を飢えさす事はしないで欲しい 』と話されました
この言葉に感銘を受けたマッカーサー元帥は、米国から食料を送らせ、私たちが学校で飲んだ「脱脂粉乳」など、大量に供給して呉れました。
昭和21年(1946年)11月「大日本帝国憲法」廃止が裁可され、昭和22年(1947年)11月3日「日本国憲法」が施行され、天皇は『 日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である』と位置付けられたので、天皇は従来の“朕(ちん)”を使わず「私(わたし)」を使い、“勅語”を「お言葉」と改められました。 以後、外国訪問 と、意欲的に沖縄を除く国内視察を続けられました。昭和62年(1989年)4月、昼食時に嘔吐症状が出て、6月には嘔吐を繰り返され体重も減った事から診察の結果「腸閉塞」と判明し、9月22日 歴代天皇では初めて「開腹手術」を受けられました。昭和63年(1988年)には更に体重が減り「十二指腸腺癌」の療養に入られましたが、昭和64年(1989年)1月7日 午前6時33分  宝珠87歳で崩御されました

香淳皇后陵
香淳皇后は、久邇宮(くにのみや)家の長女として生まれ、良子(ながこ)

皇淳皇后陵

と命名されました。大正13年(1924年)1月26日結婚され 皇太子妃と為られました。裕仁親王との関係は二人で手を繋ぎ散策する程 円満で5人の皇女と「 継宮(つぐのみや)・明仁(あきひと)親王『平成天皇』」と「義宮・正仁(まさひと)親王」の7名をお生みになり、昭和元年に「皇后」と為られ、昭和天皇崩御により「皇太后」に為られ、昭和51年(1976年)に那須御用邸で転倒して腰椎を骨折し、杖を突いての歩行と為り、平成2年(1990年)頃から「認知症」が顕著と為り、平成12年(2000年)6月16日  老衰による呼吸不全の為、皇居吹上大宮御所で 97歳で崩御されました

綾南公園
綾南公園は、5万9千 平方メートルの広さが有り、「野球グランド2面」が取れるグランドが有ります。 「いちょう祭り」の折には、公園内は休憩場所として多くの露店が立ち並び、グランド内では中央に大きな食堂街が出て左右の広場ではイベントが入り、左側では「和太鼓連合会」のチームが交代で太鼓を叩き、右側では「阿波踊り」と「じょいそーらん踊り」の競演が続きます。
本日は、3部咲きの桜並木を中心に、小休止し、南浅川の遊歩道に進みます。

御陵線・高架橋 橋脚
桜並木を潜って進むと、住宅に接して巨大なコンクリートの

御陵線高架橋脚

橋脚が2基見られます。 京王・御陵線が南浅川を渡る為に
高架橋を造った名残です。 昭和39年(1964年)に撤去する時に隣接して後日に建てた住宅から工事中止の申し入れが有り、処分撤去が出来なかったとの事でした。

八王子千人同心

八王子千人同心は、徳川家康が江戸に入った折に江戸を守る前線基地として甲州街道「小仏峠」の守りとして、旧武田兵を徳川の幕臣として採用した部隊で当初9人の組頭と250名でスタートしました。翌年組頭10人と500名の同心に増強され、八王子に575キロ平方メートルの土地を拝領しました。 「小仏峠」の守備と八王子の治安維持が主な任務だったが、「関ヶ原の戦い」の折に、一気に1000人の兵力に増強され千人同心と為りました。組頭は旗本として俸禄を得たが、一般同心は合戦に出た分の手当は出たが、通常は無給で、貸与された田畑で農作物を生産出荷して生計を賄う「半士半農」の実態でした。勿論  納税も していました。徳川幕府が確立し、江戸を守る重要性が薄れた事から、徳川家康の墓所である日光東照宮の警護を命じられ、以後160年間 交代勤務を務めました。「八王子千人同心」の大きな成果は、日光の建築物の保全と共に、蝦夷地の治安維持と共に、白糠と勇払地区の開墾を手掛け、「苫小牧市の礎を築いた功績も有ります。

宗格院
宗格院は、組頭の「山本家」「河西家」「栗川家」の菩提寺です。 幕末の千人同心の「松本斗機蔵」が有名で、天保9年(1838年)、前年の外国船接近に対する幕府の対応が一貫性を欠いた対外政策として、幕府に意見書を差し

宗格院正門

出しました。 鎖国政策が現状に不得策で有る事。海防の充実と外国船打払令の無策。穏便な交渉の必要性を強調しました。 天保12年(1841年)その見識を買われて「浦賀奉行」に抜擢されたがその寸前に病に倒れ、49年の生涯を終えました。 勿論、 松本斗機蔵の墓も有ります。

興岳寺
興岳寺は、組頭の「石坂家」の菩提寺です。特筆すべきは 千人同心が日光勤番を務めていた慶応4年(1868年)に石坂弥次衛門が日光勤番の折に、幕府軍の伝習隊を率いる「大鳥慶介」が宇都宮で敗れて日光山に立て篭もり官軍と対峙しました。 愈々官軍が出撃したとの情報を受け、石坂弥次衛門は大鳥慶介に合い、日光東照宮を守る為に、この地に通って居たので、『伝習隊をこの地から下山させて欲しい 』 と申し入れて会津に向かわせて 、今市に進軍してきた官軍の隊長「谷干城」に面談し『日光を焼き討ちするなら応戦しますが、160年守り抜いた日光を維持して下さるなら私達は八王子に退去します。』と話すと、『 日光に居る武装集団を退去させる命令を受けているので、退去すれば 私は 江戸に帰れます。』 と 快諾し、日光から八王子に戻りました。 八王子に戻り組頭の会合で、経緯を説明したが 戦わずに帰郷した事に対して、批判が集中して、その夜、石坂弥次衛門は切腹しました。残念ながら、組頭の会合で厳しい批判を受けた事から、 墓標も小さく慎ましい墓石でしたが、 戦を回避して連れ帰った50名の同心から2基の「燈籠」が寄贈されました。 此の事から日光市は災害に遭わずに観光地として繁栄し、八王子市と姉妹都市に為っています。 石坂弥次衛門が60歳で切腹後90年経過して、石坂弥次衛門の措置が評価されて、興岳寺の本堂前に八王子市長名で「顕彰碑」が建てられ、皆さんに紹介しました。

興岳寺を出た一行は、JR「西八王子駅」に進み、駅前で解散式を行い、会長から4月度の月例会【「西郷どん」ゆかりの地を巡る 】の案内と参加要請があり、解散しました。

懇親会風景…お疲れ様、乾杯!

(文章作成) 田口 憲隆    (写真提供) 北村 卓志

 

 

 

 

 

 

 

 

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