第235回例会 (支部創立25周年記念例会)「ディープな銀座を巡るPart2」を実施しました

気温が上がったり下がったりする今年の異常気候ですが、曇り空で季節相応の気温の日、2019年の最終例会に36名の元気な会員が集合しました。

社友会東京支部は今年創立25周年を迎え、記念講演、記念誌の発行、記念ホームページの開設など種々の記念行事を実施してきましたが、歩こう会としても25周年の記念になることを実施したいということから、会員各位に「25周年記念バッチ」を作成して会員全員に配布することにしました。出来上がったバッチはこの日の参加者に渡しましたが、参加されなかった方には後日お渡しすることにしています。バッチを受け取った会員からは「すばらしい」「立派なものができた」と称賛の声が多く寄せられました。

歩こう会会員に配布した記念バッチ

さて、本日の例会は、世界に通用する一流のブランドショップや有名店ばかりというイメージの強い場所ですが、そのような銀座ではなく、裏通りの銀座を歩く企画です。昨年12月には、銀座5丁目から8丁目を歩きましたが、今回はPart2ということで銀座4丁目から1丁目を歩きます。

例会実施日  2019年12月21日(土曜日)
例会参加者  36名
主なる見学のポイントとなるところを紹介します。
参加された人は思い出として、参加されなかった人は、勉学の一助をと願って紹介します。参加者からは「こんなところがあるのをよく見つけてきますね」との言葉をいただきました。

銀座4丁目
関東大震災十周年記念塔  中央区銀座4-1-2
大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、相模湾沖を震源とする大地震が東京を揺るがしました。マグニチュードは7.9と推定されています。
昭和8年(1933)、関東大震災から10周年を迎え、銀座4丁目に悲劇を忘れないための記念碑が建てられました。 彫刻家北村西望(せいぼう)の手になる兜をかぶった青年像の台座正面には「不意の地震に普段の用意」とあり、現在も通用する言葉です。

銀恋の碑  中央区銀座4-1-2
「銀座の恋の物語」は昭和36年(1961)に発売され、翌年には映画化されて大ヒットしました。この歌の大ヒットを記念して銀座4丁目に「銀恋の碑」が建てられました。

この日は年末ジャンボ(宝くじ)の発売最終日であり、この付近は、西銀座チャンスセンターで幸運の宝くじを買おうという人たちでごった返しており、説明もそこそこにして記念碑のみを見て通り過ぎることとなりました。

宝童稲荷 中央区銀座4-3-14
「宝童稲荷神社」は、江戸時代から伝えられたものと言われ、良縁の成就や子育てのご利益で、多くの信仰を集めています。銀座の神社の多くは、ビルの屋上に上げられてしまいましたが、ここは周辺の方々がしっかりとお世話してきたこともあり、路地の中ほどの大地に鎮座しています。

東京慈恵会医科大学発祥の地の碑  中央区銀座4-4-1
医科専門の私立大学である慈恵大学は、明治14年(1881)、海軍軍医総監を務めた高木兼寛(かねひろ)が組織した医療改善と医学研究を目的とする団体「成医会」が京橋区鎗屋町11番地(現在の中央区銀座4―4―1)に開設した夜間の医師養成機関「成医会講習所」が起源です。ちなみに創設者の高木兼寛は、脚気の解消のため海軍でカレーを奨励した。これが海軍カレーの始まりと言われています。

真珠王記念碑  中央区銀座4-5-6
世界に「ミキモト・パール」の名を広めた真珠王御木本幸吉は、安政5年(1858)志摩国大里(現・三重県鳥羽市)に生まれました。欧米では真珠が非常に高値で取引されており、そのため日本ではその母貝となるアコヤ貝が乱獲され、絶滅寸前の状態となっていました。多くの貝を獲ってもその中に真珠を見つけることは一種の賭博のようなものだったからです。幸吉は、その状況を憂い、アコヤ貝の養殖に着手しましたが、それとても中に真珠があるという保証はなく、ついに養殖真珠の事業を思いつきました。
貝の中に核を入れる養殖は中国では古くからおこなわれており、幸吉もその手法で、明治26年(1893)、養殖中の貝から半円真珠(球体を半分に割った形)を取り出すことに成功します。しかし、幸吉は半円真珠に飽き足らず、真円真珠(完全球体)の養殖の研究に没頭し、多くの研究者たちの協力を得て、明治38年(1905)真円真珠を作り出すことに成功し、明治天皇に献上しました。大正8年(1918)ついに大量生産の手法を得て海外にも販路を広げました。
幸吉は、明治32年(1899)東京の銀座に「御木本真珠店」を開設し、明治36年(1903)銀座4丁目の現在地に移転しました。

銀座木村屋  中央区銀座4-5-7
銀座で最初のパン屋は「木村屋」です。初代の木村英三郎は横浜でパンに遭遇し、明治2年に芝白銀町にパン屋「文英堂」を開業しました。パンは日本人にはまだ普及しなかったため商売の先行きは暗かった。英三郎はさまざまに工夫を凝らし、日本古来の和菓子「酒饅頭」にヒントを得て酒種を使ったパンを思いつき、試行錯誤を繰り返し、饅頭の中身の餡を入れたパンを完成させました。
明治8年(1875)4月に明治天皇が、東京向島の水戸藩下屋敷に行幸される際、侍従の山岡鉄舟から行幸時の接待用のお茶菓子に「あんぱん」が推薦されました。(英三郎と山岡鉄舟は剣の道で知り合いでした)
英三郎は、恐縮しながらも依頼を受けましたが、ただのアンパンでは芸がないと、さまざまに工夫を重ね、パンの中央をへこませて、桜湯に使う桜の花の塩漬けを載せてみた。いうまでもなく、桜は、菊とともに日本を象徴する国花であり、結婚式で出される桜湯で知られるように、めでたいものの象徴です。 あんパンを食べた明治天皇は、その味を愛でて、木村屋は一躍、宮内庁ご用達となりました。

和光  中央区銀座4-5-8
大みそかのNHK「ゆく年くる年」で越年の瞬間に午前0時を示す。このビル時計塔の映像は日本中の人々の脳裏に焼き付いている。テレビや映画でこの時計塔の映像が流れると「和光」の名前を知らなくても、だれもが「銀座だな」と思い起こす条件反射のようなシンボルとなっています。
「和光」の前身は「服部時計店」です。
現在の「和光」のビルは、昭和7年(1932)に竣工し、屋上には「服部時計店」の象徴たる時計塔が設置されました。交差点に面した壁面を円形のカーブにし、大量の花崗岩と万成石を使用した、ネオ・ルネッサンス様式の斬新なデザインは当時の「銀ブラ」族を驚かせました。当時は2階までが売り場で、その上は「服部時計店」の本社となっていました。このビルは、空襲の被害も受けず、戦後まで生き残った貴重な銀座のモニュメントです。
終戦の年昭和20年(1945)「服部時計店」の小売部門が分社・独立し「和光」が誕生しましたが、進駐軍に社屋は接収され、PXとなりましたが、昭和27年(1952)接収は解除され、ビルは再び「和光」となりました。ビルは平成20年(2008)ほとんど再建築という工事を経てリニューアルされましたが、外見は、創建当時とほとんど変わっていません。「和光」のシヨーウインドーとともに、「和光」ビルは銀座のランドマークとして輝き続けています。

銀座3丁目
銀座煉瓦亭  銀座3-5-16
ポークカツレツ発祥
明治28年(1895)創業の「煉瓦亭」は、忠実にフランス料理の「コートレット」を提供していましたが、いつしか材料を薄切りの豚肉にして「豚肉のカツレツ」(のちにポークカツレツと改名)と名付け、伝統的な添え物の温野菜を千切キャベツに替え、さらに味の濃いドミグラスソースをウスターソースに替えて提供すると、洋食に慣れていない当時の日本人に大いに受けました。その味は、パンよりもご飯に合うといわれ、客たちはご飯の提供を求めました。店主は、ご飯を皿に盛って出すことを思いつき、日本の洋食のポークカツは、まさにこの店から生まれました。(とんかつが登場するのは明治の後期とされています)
オムライス発祥
この店で賄い食として作られていた、ご飯をとき卵に混ぜてオムレツ風に仕立て、ケチャップをかけたものが客の目にとまり、乞われてメニューに載せるようになったという。当初は「ライスオムレツ」と称していました。現在でも同店では、「元祖オムライス」としてメニューに載せています。ちなみに、ケチャップライスを玉子で包んだ、一般的に知られるオムライスの元祖は、大阪汐見橋(現・大阪市浪速区)の「パンヤの食堂」(「北極星」と改称して現在も盛業中)で大正11年(1922)のことと言われています。

グリルスイス  中央区銀座3-5-16
カツカレー発祥の地
創業者の岡田進之助(明治28年生)は、日本の西洋料理の礎を創った東京・麹町の『宝亭』(空襲により焼失)と首相官邸・国会記者クラブにて総料理長をつとめ、歴代首相の東條英機や吉田茂に料理を提供しました。退官後、ニチレイに迎えられました。混沌とした敗戦後、外地より帰還した息子達を中心に戦前・戦中に高価であった西洋料理を「より多くの方に食してもらおう」という理念のもと昭和22年に『グリルスイス』を銀座7丁目で誕生させました。
次男の岡田義人は父の影響を受け帝国ホテルで修業をしました。
当時、当店のカレーは帝国ホテルと同じに『カルカッタ風カレー』と言いました。その仕事ぶりが評判を呼び人気店となり、昭和30年には越後湯沢のスキー場に出店しました。創業者の進之助や次男の義人は若くして他界しますが、味と技術は末娘の伴侶 庄子敏松に受け継がれました。ロゴは義人がデザインしたものであり、味とともに大切に守っています。
昭和23年ごろに巨人軍千葉茂選手が巨人・阪神戦の前に、おなかが空いていたのでたくさん食べたいし、早く一気にガツンと食べたい。との希望で「カレーライスにカツレツをのっけてくれ」との注文をしたそうです。当時はカレーライスに何かを乗せる発想はなかったそうですが、千葉選手は「勝負に勝つ(カツ)」というゲンを担ぎ、試合前によく食べたそうです。当時のメニューには「特別料理 カツカレー 180円」と書かれていたそうです。店内には「カツカレーは勝利の味がする」という千葉選手自筆のサインがあるそうです。

ガス灯通り
東京不燃都市化計画が明治の初めに持ち上がり、そしてできたのが銀座煉瓦街でした。ロンドンのリージェントストリートを真似して、街路樹、アーケード、そしてガス灯が設置されました。
明治7年(1874)の12月、京橋・金杉橋間に85基のガス灯が設置されました。当時の人々はその明るさに仰天したそうです。ガス灯は点灯夫(点灯方とも)と呼ばれる人々が、9尺(約2.7メートル)の点灯棒で夕方に点灯し、朝消灯した。明治初期、ガス灯の点灯夫は、銀座の風物詩として人々に親しまれていました。
道の両側にあるガス灯は、昭和60年(1985)に復元されたものです。ガスでともっている証拠に、地面に通気口があります。

松屋銀座  銀座3-6-1
大正14年(1925)銀座店の開店に合わせ、百貨店初のカフェテリア式大食堂(お客様が個々のお好みの料理などを取り、最後に料金を支払う方式)及び、ツーリストビューロー(旅行案内、観光案内)を設けました。

ここまでウォーキングをしてきましたが、時刻は3時少し前の、おやつの時間となりました。幹事の一人に買い物をしてもらった「銀座木村屋の桜アンパン」を全員で賞味しました。先にもありますが、この「桜アンパン」は創業者が和菓子の酒饅頭からヒントを得て、苦心をして開発し、明治天皇に献上したもので、明治天皇もその味を愛でられたということです。
歩こう会では、今後もウォーキングコース途中においしいものがあれば、みんなで賞味する機会を作ってゆきたいと考えています。これまで、葉山の「コロッケパン」、墨田区向島の「長命寺の桜もち」、埼玉県行田の「ゼリーフライ」のおやつ試食を実施してきましたが、今回は4度目のおやつタイムをすることが出来ました。

朝日稲荷  銀座3-8-10
1923(大正12)年の関東大震災で三十間堀川の川底が隆起し、埋れていた御神璽が出現したため旧社地に社殿が再建されました。1945(昭和20)年4月の空襲で焼失したものの1964(昭和39)年に再建。商売繁盛・家内安全・開運・火難・厄除・望願に霊験あらたかな神社として、全国から多くの参詣者が集まります。毎年2月に、二の午の祭事が盛大に行われています。
この神社はちょっと風変わりな神社で、「ビル一部(1階)を拝殿とし、本殿を屋上に安置しています。 パイプにより拝殿と本殿がつながり、拝殿での参拝が本殿に届くよう工夫されている」とのことで、 拝殿の前でお祈りした「つぶやき」が屋上の本殿に届いているとのことです。

明治会堂    中央区銀座3-14-13
福澤諭吉と慶應義塾(現・慶應義塾大学)の政治結社グループにより建築された政談演説公会堂です。明治17年(1884年)に「厚生館(こうせいかん)」へと名称が変わり、「木挽町厚生館」として知られました。慶應義塾は明治8年(1875年)に既に三田演説館を設けて「三田演説会」を頻繁に開催し、大井憲太郎や植木枝盛といった民権派の壮士が数多くここから輩出されていましたが、慶應義塾外においても演説会場の必要性を感じた福沢諭吉は、明治13年(1880年)6月に「明治会堂建築相談会」を発足させて門下生の馬場辰猪、森下岩楠、肥田昭作、朝吹英二、渡辺恒吉らに会堂建築計画を相談しました。
創立者同志の金子堅太郎が、前東京府知事・由利公正の邸宅と所有地を買い取って9月に着工。設計者は藤本寿吉。明治14年(1881年)1月に完成。年号よりその名を取り「明治会堂」と定めた。当時、東京府下で一番の演説会専用の会場として開館直後から連日客席は満員となりました。

専修大学発祥の地(日本初の私立法律経済学校)記念碑   中央区銀座3-14-13
明治13年(1880)9月16日 日本最初の私立の法律経済学校として、この地に開校したのが専修大学の始まりです。

宝珠稲荷神社  銀座3-14-15
宝珠稲荷神社は元和元年(1615)の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられました。内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍として鎮台に務めたるも不幸にして島原にて年令50才にして戦死します。
年経て宝暦10年(1760)岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡されます。さらに、大正7年岡山の岡崎家に売却されますが、本神社は敷地と共に地元木挽町三丁目氏子に寄進せられ昭和44年(1950)地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至ります。

銀座2丁目
ヘアーサロンササキ    銀座2-5-18
銀座ヘアーサロンササキは、銀座で100年以上続いている床屋さん(理容店)です。床屋と言っても男女問わずくつろげるユニセックスな空間作りで営業を行っております。男性の方もカットコース(カット、シャンプー、シェーブ、ブロー込み)が4530円などお得なコースもご用意しています。
現在も経営者家族がこの地に居住し、生活しているお店としても有名です。

日本最初の電気灯柱  銀座2-6-12
明治15年(1882)11月1日に点灯。当時は電力が普及していなかったので、自家発電装置を使いアーク灯を点灯しました。 実業家の大倉喜八郎や原六郎らが電燈会社の設立を求め、東京府知事に設立を求める請願書を提出しており、この銀座の電気灯の点灯は電燈会社設立に向けた宣伝のデモンストレーションでもありました。
明治16年(1883)には青山御所御苑にも設置され、天皇皇后両陛下は電気灯をご覧になるため、青山御所に成らせられた。と記録にあります。明治天皇がわざわざ見学するような明治の文明開化の一大事件でした。
アーク灯は、光量は多いがその点灯には大掛かりな発電機が必要で、費用が掛かりすぎるので一般には使用されることはありませんでした。
明治18年(1885)日本初の白熱電灯が、東京銀行集会所開所式で点灯されました。その翌年明治19年(1886)には日本初めての電気会社、東京電灯会社(現・東京電力)が開業し、最初の点灯の仕事は、文明開化の華と呼ばれた「鹿鳴館」でした。

銀座発祥の地の碑  中央区銀座2-7先
日本の最初の貨幣は、和同元年(708)に鋳造された和同開珎とされていますが、それ以前に「富本銭(ふほんせん)」や「無紋銀銭・銅銭」が流通していたとの説もあります。
朝廷は天徳2年(958)までに「万年通宝」、「神功開宝」、「隆平永宝」、「富寿神宝」、「承和昌宝」、「長年大宝」、「饒益(じょうやく)神宝」、「貞観永宝」、「寛平大宝」、「延喜通宝」、「乾元大宝」の十二種類(和同開珎を含む)の貨幣を鋳造したが、それ以降日本における貨幣の鋳造は中断し、永楽銭などの中国から輸入された銅銭や、物品貨幣といわれる「稲米布帛」つまり、米や絹が貨幣の代わりに通用していました。
天下統一をはたした徳川家康は、幕府の権威を全国に波及するため通貨の統一を図り、幕府の管理のもとに金座、銀座、銭座を設置して全国に流通する共通貨幣を鋳造し、日本の正貨としました。このようにして銀座は、当時多く流通していた秤量貨幣の丁銀、豆板銀などの銀貨鋳造所として設立されました。
慶長11年(1606)幕府から江戸、京橋より南へ四町分の土地を拝領して駿府の銀座が移設され、町名を京・駿府の銀座所在地にちなみ、新両替町(金座の所在地がすでに両替町だったので、新両替町となった)とし、以後、この地で銀貨が鋳造されるようになりました。銀座役所が設置されたことにより以後は俗称としてこの界隈が「銀座」と呼ばれるようになりました。
流通貨幣を扱う銀座に、不祥事が発生しました。寛政12年(1800)大量の幕府への上納金停滞が発覚し、多くの処分者を出しました。そのため、松平定信の寛政の改革により、貨幣鋳造役所としての銀座は蠣殻町(現・中央区日本橋人形町)に移転を命ぜられたが、俗称の「銀座」はこの地に残り、明治2年(1869)正式の地名とさだめられ、ここに東京の「銀座」が誕生することになりました。

ヨネイビルディング  中央区銀座2-8-20
銀座がいちばん華やかだった時代、1930(昭和5)年に建てられたビルです。株式会社ヨネイ(当時は株式会社米井商店)本社ビルとして誕生しました。1951年に増築して6階から7階建てになり、1984年に外壁と窓枠の改装を行いました。東京都選定歴史的建造物で、洋菓子の「アンリ・シャルパテイエ」が1階にあります。ここではギンザ生まれのはちみつを使用したマドレーヌを味わえます。

酒蔵秩父錦  中央区銀座2-13-14
純木造建築の建物は、関東大震災の翌年、大正13年(1924)に建てられたもので、当時は薪炭を扱う店でした。昭和45年(1970)この店は廃業した後、秩父錦の蔵元が秩父錦を専門に供する居酒屋として開業しました。
秩父錦は寛永2年(1749)創業で埼玉県秩父市別所にある酒造業「株式会社矢尾本店」が製造する日本酒の銘柄で、荒川水系の良質な水と秩父盆地特有の寒冷な気候により、昔ながらの手作りの技術により、260有余年を経た今でも、秩父の地酒としてファンが多くいます。。

銀座1丁目
遠藤美容室     銀座1-7-5
銀座で女性の美しさを追求し続けています。 日本の女性を心より美しく。
すべてはこの想いからはじまりました。 “美顔術”という近代美容の新しい概念を提唱し、銀座の街に日本初の総合美容室を創業した「ハツコ エンドウ」。
創業者遠藤波津子は、大正5年にラジオで着物の帯の結び方を放送しました。

銀座「タニザワ」  銀座1-7-6
明治7年(1874)創業。谷澤禎三が考案したといわれる「鞄(かばん)」の文字を看板に掲げたところ、これが銀座を通った明治天皇の目にとまり、「鞄」の文字が全国に広まったといわれています。

奥野ビル  中央区銀座1-9-8
昭和7年(1932)に当時の最高級アパートとして建設された奥野ビルは地上7階(建設当時は6階)、地下1階で、見た目は同じ形のビルが二つ並んでいるように見えます。両側に各4室合計8室が並び、外形、窓などすべて直線的なデザインで統一されています。設計は今はもうなくなってしまった原宿の同潤会アパートを設計した川元良一です。
このビルでは今もなお現役の手動エレベータが稼働しています。
奥野ビルには多くのギャラリーや画廊が入っており、だれでも気軽にエレベータを利用して、ビル内部の面白さを楽しむことが出来ます。
大勢でビルに入るのははばかられるため、少人数でビル内を探検して手動エレベータも見学をしてもらいました。

煉瓦銀座之碑  中央区銀座1-11-2
文明開化の象徴であった銀座の煉瓦街は、大正12年(1923)の関東大震災によって跡形なく破壊され、現在その姿を偲ぶ唯一の遺構が銀座8丁目金春屋敷跡の前に残されていますが、銀座煉瓦街を記念して、銀座1丁目に「煉瓦銀座之碑」が建てられました。

鈴木ビル  中央区銀座1-28―15
東京都選定歴史的建造物に指定されている。昭和4年(1929)竣工の鈴木ビルは、地上5階、地下1階の鉄筋コンクリート造りで、ドイツ・スタイルを加味したアールデコ様式の美しい建物です。壁面はスクラッチ煉瓦で左には講師パターンとデコラティブなエンブレムが付けられた彫刻に飾られた角型の窓、右側には二列の張り出し窓、中央には住持に仕切られた円形の窓が配置され、美しいバランスを見せている。1階の円柱の幾何学模様のレリーフ、階上の馬蹄形の出窓など、見事なデザインとなっています。
このビルは、松竹の衣装を担当していたとされる鈴木氏の持ちビルで、そのため、竣工当時は歌舞伎の稽古用の舞台もあったということです。

銀座周辺地
江戸歌舞伎発祥の地の碑    中央区京橋3-4先
江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)、京都から下ってきた猿若勘三郎が中橋南地に、猿若座の櫓をあげたのが始まりと言われています。この猿若勘三郎が、後に名前を変えて中村勘三郎となり、座の名前も中村座となりました。江戸歌舞伎では、中村勘三郎という名跡はもっとも由緒あるものです。
この碑は、猿若座が興業を開始したのを記念して昭和32年(1957)に建立された碑です。

京橋大根河岸青物市場跡碑   中央区京橋3-4先
寛文年間(1661~1673)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年(1935年)に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。市場には、江戸特有の亀戸大根、練馬大根、小松菜、江戸独活(うど)、滝野川牛蒡、品川蕪、千寿葱、寺島茄子、馬込人参、内藤南瓜(かぼちゃ)、早稲田茗荷などが並べられ、日本橋の魚河岸と並んで江戸の人々の台所を賄った。この市場は特に、練馬・亀戸の大根が多く扱われ 冬になると10本まとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、「大根河岸」と呼ばれ、関東大震災まで「京橋大根河岸」として親しまれていました。河岸と言うのは、川や水路沿いにある荷揚げ場のことです。

これで、本日のツアーは終了です。柿本会長から来月の「小金宿から森の広場へ」の説明と今年最後のウォークに対する御礼、来年もまた元気に歩きましょうとの挨拶があり、いったん解散しました。
懇親会参加の25名はこの後すぐ近くの居酒屋「魚や一丁」に移り、忘年会を実施しました。
席上、1年間の締めくくりとして皆勤賞、精勤賞の表彰、来年4月以降のコース予定などの案内があり忘年会の始まりです。
みんな、ほどよくアルコールを召し上がり、良い一年の締めくくりとすることが出来ました。

文章作成   柿本政昭
写真撮影   北村卓士

 

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