第237回 「イスラム文化に接してみよう」を実施しました

健康歩こう会では参加して良かった、楽しかった、新しい発見があった、出来ない体験をすることが出来た、感動した。と思っていただけるコースを選んでいます。
2月はテレビで「東京で行ってみたい観光地・第4位」として紹介された『東京ジャーミイ』と隣接する 『古賀政男音楽博物館』を中心にウォーキングをしました。

暖かい日でしたが、代々木上原駅に34名の会員が集まりました。会長の挨拶が有り出発です。駅を出て、井の頭通り交差点に出ると、左側に『古賀政男音楽博物館』の建物が見えます。

『古賀政男音楽博物館』に入ると、1階には「けやきホール」が有り、コンサートが開催出来る貸ホールに為って居ます。2階に登ると「大衆音楽の殿堂」として、日本の大衆音楽に貢献した作詞家・作曲家・歌手・編曲家・演奏家の方々を顕彰し、業績を称える殿堂で、顕彰された方々のレリーフが飾られて居り、柱には寄贈された遺品等が展示されていました。会員の皆様は、懐かしい歌手や音楽家の顔を探して、夢中に為っていました。
「大衆音楽の殿堂」から進むと、細いタイル張りの坂道に為って居ます。これは古賀政男の私邸を訪れると、道路わきの駐車場に車を置き、木戸を潜ると細い坂の小道が有り、丘の上に邸が立てられて居ました。 歌手の皆さんは、この坂道を登る時に『これから古賀先生に指導を受けるんだ!』と緊張されたと伝えられて居ます。
3階に上がると、古賀政男さんの「私邸」の全景のモデルが見られ、移設した日本間・書斎・常設展示が見られます。書斎は、作曲や歌手指導した執務室で、机や機材が並べられ、使用されて居たピアノも置かれていました。
隣には、寛いでいた居間も設置されて居り、常設提示コーナーでは日頃使用して居た機材が多数見られます。又、窓際には視聴セットが有り古賀政男の懐かしい作品を楽しむことが出来る様に為って居り、功績に対する数々の表彰受領品が展示され、古賀さんの73年に渉る、生涯の年表が掲示され逝去された10日後に国民栄誉賞が授与されたとの事でした。
地下1階には「音楽情報室」として、音楽関係の書籍・雑誌・楽譜などが閲覧出来、7000曲の音楽を視聴できるコーナーも有り、カラオケルームで自分の声を録音出来る部屋も用意されて居ました。
※ 古賀政男音楽記念博物館内部は撮影が禁止されていますので、紹介する写真 がないのが残念です。

本日は、一般の見学者が居ませんので、係の方に了解を貰い、此れから向かう『東京ジャーミイ』の成り立ちを説明しました。
「東京ジャーミイ」発足は、大正6年(1917年)ロシア革命が起ると、ロシア帝国に住んでいた回教徒、トルコ民俗の多くは国外に避難し、ザバイカル州 及び 満州在住の回教徒商人の約600人が日本へ移住して来ました。そのうち200人は東京周辺に居住しました。当初は大正13年(1924年)に、千駄ヶ谷会館を礼拝所としていたが、昭和6年(1931年)日本在住教徒連盟会を中心に会堂建設機運が高まり、日本人有志から10万円(当時)の寄付が寄せられ、現在地にサラセン式ドームを有する礼拝堂が建設され、昭和13年(1938年)5月12日に落成式が行われました。これが「東京ジャーミイ」の始まりでした。
当初の礼拝堂が木造で有った事から、老朽化が進み昭和59年(1984年)に閉鎖され、昭和61年(1986年)取り壊されました。 東京トルコ人教会は、再建をトルコ政府に委託しました。
トルコ政府は、国民に広く寄付を募り 、建築資材や内装・外装を手掛ける職人を東京へ派遣し、平成12年(2000年)6月30日に、現在のモスクが開堂し従来の礼拝堂と共に、イスラム文化 と トルコ文化を伝える役割を果たす様に為りました。
『東京ジャーミイ』に向かい、玄関を入ります。「東京ジャーミイ」は正式名称を「東京ジャーミイ ・トルコ文化センター」と称します。

1階の入口を入ると、左側にトルコ人の住いの応接間が再現されて居ます。その先の壁にはトルコの陶器類と写真が飾られて居ます。入口の右側にはトルコの書籍が展示販売されて居りその奥には、事務室と会議場が有り、右奥のスロープを進むと「売店」が有り、トルコの香辛料や食品と共に民芸品も販売して居ます。 売店を出て更に奥へ進むと突き当りと為り、右側に男子トイレ、左側に女子トイレが有ります。
このトイレが独特で、3個の個室トイレと手洗い場が有り、その3倍の広さのタイル張りのフロワーが有り、水道の蛇口が13個と タイル張りの椅子が10個有りました。 将に銭湯でした。これを確認すると、回教徒は礼拝堂に入る前に体を洗い服を着てから礼拝堂に入る習慣があり、その為の施設との事でした。2時30分に為りました。1階入口付近で講師による「東京ジャーミイ」の解説が始まりました。
本日は一般客が多く、入口のフロアが満員の盛況でした。
説明委員の方も、満員の盛況に機嫌が良かった様で、「チューリップ」の花はトルコが原産地であるとの説明の後、数字はアラビアから欧州に広まった等、トルコやイスラム圏の功績を、80名の参加者を立たせた儘に50分説明し、2階へ上がりモスクを紹介後に礼拝堂に入りましたが、何故か会員の4名程が礼拝堂に入りましたが、大半の会員の方々は1階での解説を聞き疲れたのか、礼拝堂に入らず礼拝堂前の庭で休んで居られました。 急遽招集が掛かり分散休憩して居られる方を集め、礼拝堂でのイスラム式・礼拝を見ることなく、ウォーキングに出発しました。

「東京ジャーミイ」から4km先の「北沢八幡神社」へ直行しました。
『北沢八幡神社』
室町時代、世田谷城主・吉良頼康(よしやす)が勧請した神社で、家臣が下北沢村に土着して原野を開墾し、畑を作り農家に為った事から 元家臣達の栄える事を祈念する目的で、世田谷城の鬼門の方向に当たる当地に、八幡宮を建立しました。 その後に世田谷区に7社の八幡宮が建立しましたが、「北沢八幡神社」が八幡宮の総社となり、本殿 拝殿に【 七澤八社随一正八幡宮 】の額が掲げられています。

鳥居の脇には「河津桜」が満開に咲いていました。参拝を終えた一行は、社務所側の一角から、東京で現在2か所だけに為った 神社境内から見られる「富士山」をご覧頂き、既に4時過ぎて居ましたので,夕焼けの富士山でした。もう一か所は、大田区の「多摩川浅間神社」です。
鳥居の一角の広場で幼児を含む50人程の子供が遊んで居るのを見て、神社の境内では珍しいと、多数の会員の皆様が驚いて居て感心して見入って居ました。

鳥居を出て、隣の「森厳寺」に入ります。
『森厳寺』
「森厳寺」は正式名称を「八幡山・浄光院・森厳寺」と称する浄土宗の寺院です。開祖「結城秀康」の《位牌所》です。

「結城秀康」は天正2年(1574年)家康の次男でしたが、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで、徳川家康と豊臣秀吉が和睦の条件として秀康は秀吉の元へ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母兄弟の秀忠と為りました。秀吉の実子が生まれた事から、北関東の大名「結城晴朝」の婿養子となり、11万1千石の大名と為りました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦「会津征伐」に参戦し、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。関ヶ原の戦い後, 越前北ノ庄 68万石に加増移封される。慶長11年9月。伏見城留守居役を命じられるも。慶長12年3月1日 病いの為職務を全う出来ず帰国し、死期が近いと察した事から菩提寺の住職に会い『 私は徳川家康の子であり徳川家のいる江戸に私の「位牌所」を造って欲しい 』と依頼して、慶長12年6月2日に逝去しました。住職は高齢でしたので弟子に頼み、建立し戒名から「浄光院・森厳寺」として、徳川家に建立の報告をした処、徳川家の家紋入りの「石灯篭」1対が送られ本堂の前に建てられました。
又、当寺は「粟嶋の灸の寺」として有名で、開山された孫公和尚が腰痛に苦しみ、淡島明神に熱心に祈願した処、夢枕に「淡島明神」が現れて《灸の秘法》を伝授され、秘法に準じて灸を造り試した処、昔年の腰痛が完治し、その効能が知れ渡り今日でも毎月3の日と8の日には、「灸治の日」として、遠方からも多くの方々がお越しに為ります。
「森厳寺」を出た一行は、一路 「下北沢駅」に向かいます。賑やかな商店街には、多くの若いカップルが大勢歩き、駅周辺には「本多劇場」を中心に7つの劇場が在り「若者の街」「カップルの街」「サブカルチャーの街」と紹介される片鱗を見る思いでした。
駅前で、会長による「解散式」を行い、参加者の内 12名が懇親会に参加して、掘り炬燵に入り、楽しい団欒の時間を満喫しました。

 

文章作成  田口憲隆
写真撮影  北村卓士

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