968 伊藤 敏雄
土曜日の朝、市ヶ谷駅前は思いの外閑散としていた。
平成9年6月21日である。
懐かしさにひかれて外濠公園(市ヶ谷土手)を散策したが、人影はまばらで、緑陰を通り抜ける風は爽やかだった。雨上がりの空は青く澄みわたり、木漏れ日もまだ暑気を運んではいなかった。
目を転じると木の間隠れに、つい先ごろまで勤めていたビルが見えた。手招きしているかに思えて、一瞬戸惑いを感じた。
仕事から解放された安堵感と一抹の寂しさ抱きつつ、麻雀愛好会(平和会)第1回例会に向かったのはそのすぐ後のことだ。
仕事と家庭、そのハザマであくせく苦闘を強いられた日々が郷愁になりつつある中で、ふと頭をよぎったのは
「これからは、何をしてもいいんだ」
「これからは、何もしなくてもいいんだ」
という両極の思いである。
もちろん人や社会との関わりがある限り、公序良俗の枠からはみ出るわけにはいかないとしても、節目を迎えた身としては意識せざるを得ないことだった。
そのとき「達観」の2文字が唐突に浮かんだ。
かなり前に、歳を取ったらそんな境地になりたいと思ったことがあったが、そういう時期に差し掛かったからかも知れない。
しかし、達観の意味するところを明確に把握していたわけではなく、またそれを意識することもなく、いつも通りの生活の流れに任せて、何と20年余りが過去形の中に埋もれてしまった。
その間、社友会との関わりは、麻雀あってこその繋がりだったと思う。
雀卓を囲んだ小さな空間にも人生の縮図があって、一喜一憂をぼやきながらも楽しむひと時はなかなか得難いものだと思う。
今や俗世にすっぽりはまった身には、器の内側は見えても広い視野で全体を俯瞰し、なお先を見通すことなど未だ出来ていない。
せいぜいちょっとした高台から、乏しい知識と体験のみで近間を眺める程度でしかない。これでは達観のかけらも感じられない。
さらに達観には、「喜怒哀楽を超越して、何事にも動じない境地」の如き意味もあるが、超越とは何か?
理性で抑えられても、喜怒哀楽を無にすることなど出来ない。
いちいち顔や態度に表さないという泰然自若のことか?
外に出さない分、腹が膨れるほど溜めて、それで人生楽しいか?
何もここで考えることではないが、抑えるにしても自分で出来る範囲はたかが知れていることを思えば、悟りを開かない限りここでも達観は無縁の存在になってしまう。
話が迷路に入ってしまったが、日々些細なことで右往左往し、大きな煩悩の塊も一向に小さくなる気配がなく、ただ時間だけが正確に過ぎて行く日常に慣れている平凡で普通の自分を認めざるを得ない。
これもまた人間らしい生き方である。
わいわいがやがや言いながら楽しむ麻雀に勝るものはない。
だから達観は、自分にとって遥か遠いところに存在する境地である。
しかし、近づくことは難しくはない。
