2640 沼秀伸
時はあたかもバブル真っ盛り、昭和62年(1987年)小生は販社の電化商品営業部長時代でした。
毎月末になれば事業部よりの仕入れ要請が販社に強く押し付けられるのが常態化していました。
バブルの真っただ中とはいえ売り上げの形態は事業部から販社へ、また販社も月末に売り上げが集中する異常な状態であったと思います。
販社もPC化が進み、売り上げ計上もPC化がすすんでいました。ところが四国は古いシステムのままで全国からは遅れたシステムで稼働していましたので、本社ホストシステムが時間で終了していても四国独自で稼働させバックUPして7インチフロッピーに落とし込み夜中に本社ホストへ送信して完了する独自なシステムで稼働しており、全国は売上が閉まっていても四国だけ何時まででも売り上げ計上が可能でした。いい面もありますが、弊害のほうが多かったと記憶しております。
そんな時代に事業部売り上げもしかりで流通センターエリアは本社ホスト稼働の関係で月末2日前の販社への売り上げで終わりでしたが非流通エリアの四国等は翌日もシャープから販社へ売り上げが立つシステムになってました。これが問題で事業部は売上不足が生じた時(ほとんど常態化していた)は規模の小さい四国でも仕入れ要請のプレッシャーが凄い、特に決算期は異常でした。この年の9月末の仕入れ要請は異常であり最終日だけで11tトラック23車になりました。もちろん小生の担当する白物が大部分で各事業部営業の商品も含まれていました。しかし通常契約している外部倉庫は容量オーバーで収容能力を遥かに超えた物量ですので入りきらず、外部のそのまた外部倉庫への収納することになりました。
ところが10月17日に大型の台風19号に見舞われ高松地方には珍しいほどの豪雨となり、かなりの被害が出ました。一部地域ではダムの決壊を避ける為、緊急放水となりこれが2次災害を引き起し、ある社員宅も床上浸水で大変な被害を受け、後日片付けの応援に駆け付けました。まだまだ猛暑の続くなか、町中が浸水した畳や家具を道路に出し車の走行もままならない状況でした。
そんな折、当時の町田営業本部長が四国訪問の予定が組まれており無事お得意先訪問も予定通り済み帰り際に各地の被害状況を確認され問題ありませんと統括部長経由で報告を済ませた後に、外部倉庫責任者より連絡が入り「実は今まで道路が水没していて状況をつかめなかったのですが、外部のそのまた外部倉庫が水没していますとの連絡が入る」。頭の後ろをハンマーで叩かれたようなショックを受け言葉が出ませんでした。どれだけの商品が入っているのか?とにかくこれから現場へ行くからと同行するも、膝上近くまで水につかりながらの現場到着、見るも見事に水没している商品の山を見て再度茫然、エアコン約200台、冷蔵庫約150台、石油ファンヒーター約200台、ワープロ等情報商品含め仕入れ原価ベースで1億5千万位でした(後日計算)。さてこれからが地獄、早速統括部長に報告するも責任の重さから気もそぞろ、倉庫会社との交渉も当地区は港湾に近く立地しておりもとより水害保険の対象エリアで物流保険はかかっておりませんとの返事。これを聞き2発目のショック、交渉を続けるも進展なし。
ここから地獄の1週間がはじまる。ファイナンスにも色々とご苦労をお願いしました。現場の水もようやく引き始め保険会社の審査者を連れ水没現場を案内し、家電商品は水没すればすべて商品価値がありませんと説明。一週間後ぐらいして物流保険がおりそうだとの情報が入り、ホットした気持ちで膝がくずれそうになりました。一時はもうこれで我がシャープ人生も終わりか?ぐらいの気持ちで毎日が地獄でした。
それからは商品の廃棄作業、サービス会社の協力を得て、コンプレッサー取り外し、その後、産廃品として産廃業者に廃棄処理(山間の産廃場所への搬入と廃棄現場への立ち合い、廃棄記録写真)等地獄の現場立ち合い作業、但し、保険が下りたことでの安堵感があり、割と張り切って作業に付き合えた記憶があります。一連の作業が終わり最終的に物流保険の事後処理も完了した旨の連絡を受け本当に涙が出ました。
その夜は統括と2人でおいしい酒を飲みに市内へ繰り出して行きましたが、お互いにこの事は一言も口に出しませんでした。お互いの思いは同じで、ホットした思いと、ああ!いい人との繋がりがありよかったな!助かったなあ!やっと生きた心地になった夜でした。

成田征二
沼さん
大変ご苦労様でした。
天災の処理まで、昔は各営業拠点で対応していたのですね。今はどうなのでしょう?