文学青年私記 ⑨

四季酩酊 第86回

バア・スマイル

酒坊

仕事を終えるとその夜も浅草小路のネグリジェバア「スマイル」でUと飲んでいる。看板通りにホステスはネグリジェ姿だった。馴染みの女は洋子といって酒焼けした声の小柄な身体をしていた。洋子を素材に『砂の女』という小説を書いたことがある。洋子の家は、大森浜にある啄木坐像の公園の通りを渡った日乃出町で、ここは砂の上に啄木像できた町だった。仕事の途中で寄ったことがある。砂の上に粗末な家が並んでいた。家には洋子と母親がいて、母親は盲目だった。

スマイルで小津江にひと目惚れした。Uの肩越しに隣の席の小津江と目が合った。初出勤の夜だった。白い肢体に似合う水色のネグリジェを着ていた。可愛らしさに見続けていると、小津江も目を逸らさなかった。源氏名を梢だと思っていたら小津江だったのでバラツク小屋、余計に興味を持った。諍いもなく洋子と別れた。

高校を卒業すると姉の後を追って同じ道南バスのバスガイドになって、洞爺湖の営業所に居たという。この詩が好きと言って、私の前で白秋の「落葉松」をよく口ずさんだ。『からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。』瞳が青く澄んでいた。水商売の女の子に見えない。「瞳が青いね」「洞爺湖ばかり見ていたから青くなっ洞爺湖たんじゃないかな」本当だと信じた。まだ19歳だった。

店の外では源氏名は使わない。本名のA子と呼んだ。付き合いは普通若い恋人同士だった。湯の川に母親と住んで居る家があり、遊びにも行った。近所の「香雪園」でスキー遊びもしたし、函館神社へ初詣にも行った。

スマイルが看板になると湯の川の家まで送った。帰りたくないというA子とトラピスチヌ修道院の丘にいた。朝が来るまで車の中にいてもいいと思った。二人は身を寄せ言葉は失っていた。闇夜の中で鐘の音が聞こえる。修道女たちの起きる時間だ。函館山のテレビ塔の灯りやイカ漁の漁火が瞬いている。鐘が続いた。二人は身じろぎもせずに耳を傾けていた。

二人で居れば至福の時であるが、水商売のことを考えると、監視という嫉妬心が沸いて仕方が無かった。

洞爺湖に青い瞳をもらった娘  酒坊