四季酩酊 第65回
酒坊
渋谷のスクランブル交差点で馬込雄一とすれ違った。彼も私に気づいたが、素知らぬ顔で女とお喋りをしていた。彼の左手は女の尻に回っている。彼とは高校の同級生で、クラス会に行くと、2次会のカラオケに付き合った。その夜、酔った馬込から電話が来た。間延びした男の歌が近くなったり離れたりして聞こえる。
「離婚したんだ」
彼とは一時期同じ多摩地区に家庭を持っていたので、彼の妻や子供の事もよく知っている。離婚と聞いても驚きはない。定年離婚などざらにある時代だ。
「いつ。去年の秋にそんな話はでなかった」
「あの頃に、俺は家を出ていた」
「若く見えたけど幾つぐらい」
「若くはない。小さい顔だから帽子に隠れていたんだろう。カラオケ友達だよ」
それにしては腰など抱いて。還暦を過ぎたのに大丈夫なのだろうか。別れた理由なんて聞かない。聞いてどうなる事でもないが、
「自由になりたいという事さ。そろそろ解放させて下さい、だって。束縛していたつもりはないんだけれどね」
と、馬込は言った。それは私も薄々感じることだった。女は大変。若い時には子育てに追われ、会社に従順な夫の機嫌を損ねないように息をひそめ、浮気をされても子供のために我慢をして、定年になったら一日中顔を突き合わさなければならない。馬込にはこれといった趣味も無い。朝昼晩、飯の用意に明け暮れる。馬込は続ける。
「家も預金も全部渡した」
割り切った声に救われた。
「今の生活は」
「俺はくだんの女の用心棒さ。彼女の亭主は可なり前に病死した。悪いけれど救われたよ」
「野垂れ死にならなくてよかったな」
少し嫌味を言って電話を切った。
妻が我慢をしているなと思ったことはたくさんある。三行半を叩きつけられる妄想だってしたことはある。私には馬込のような甲斐性はない。恋愛の失敗で、若い時から女性には恐怖心があった。もしも、もしもだが妻に愛想を尽かされたら『俺の方が10年は早く逝く。それから飛んでくれ』と哀願するかも知れない。