四季酩酊 第78回
三河島事故と処女作
酒坊
昭和37年(1962年)3月に高校を卒業して早川電機工業株式会社に入社しました。夏休み前に受けた日本放送協会の不採用の連絡が遅く、2学期に入り学校に行くとほとんどの者は就職が決まっていて、早川電機の2度目の募集で何とか採用された。基本給11,500円・皆勤手当450円・奨励加給1000円の合計で13,000円である。
新入社員教育を受けるため、卒業の2日後には本社近くの若葉寮に入寮した。実に楽しい2カ月間だった。研修を終えると都島自動車教習所に通って、普通自動車の免許を全額会社負担で取らせてくれたりもした。
高校の時の文通相手が京都に住んで居た。日曜日に京都に行った折に電話をして、長田紀美子(仮名)と二条城で待ち合わせをした。昭和37年発行の雑誌「若い広場10月号」にこの時の紀美子の印象が書かれている。初めて世に出した「乳香」という掌編小説である。
『二条城の堀端。風になびいた黒い髪。しなやかに伸びた腕。胸の小さなふくらみ。左の目の横にある可愛い黒子。僕は直接圭子の家を訪れずに電話で二条城まで呼び寄せたのです。予期せずのことにあの黒い点々。』
19歳になったばかりの文章です。笑ってもいいです。次の文章で、顔についた黒い点々の正体が靴墨だとわかります。電話に慌て急いで靴を磨いた結果でした。これは本当のことです。「乳香」を書くきっかけになったのは研修の終わった5月に起きた三河島事故にあります。「乳香」の書き出しはこうでした。
『僕の許嫁であった真柳圭子の初七日は今日であった。圭子があの無惨な三河島の列車事故で死んでから初めて日記を開きました。』
三河島事故をウィキペディアでみると、【1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故である。「国鉄戦後五大事故」の一つ。】死者160人・負傷者296人の大事故でした。
東京に赴任していた私は、11月に「私と紀美子」(20枚)を書いた頃には文通も終わっていました。
乳香という小品が僕の処女作 酒坊




野村一男さん
コメントをありがとうございます。
「若い広場」に掲載されていたとは奇遇です。
この雑誌には文通欄があって、何人かの友達は女の名前で
登録し、男から手紙が来るのを楽しみにしていました。
青春ですね。
次の次の回あたりで、函館編になります。
読んで又、感想をください。
野村さんも「随想百花」に投稿してくれませんか。
楽しみに待っています。
新入社員当時を懐かしく思い出しました。昭和37年研修生として初めての大阪に行きました。通天閣や天王寺を訪れて、大阪を堪能しました。
当時、私も若い広場に投稿し、中学の同級生を想い「光を放つ星となるまで」が掲載され全国から文通の依頼を受けたことを思い出します。(すべて女性でした)
青春の1ページをありがとうございます。