文学青年私記 ②

四季酩酊 第77回

 文学の原点

酒坊

母のふる里の栃木に昭和20年4月に2歳で疎開しました。時期が少し遅れていれば、5月の東京大空襲に遭い、私という存在は消えていたかも知れない。昭和25年に村の小学校に入学したが、この年の夏休みにやっと東京に戻った。疎開先は辺鄙な村で、茂木町から更に4キロほど離れた那珂川の近くである。烏生田小学校の今をグーグルで見ると、介護施設になっている。

新大橋近くの八名川小学校に転校し、暫く都電通学して、翌年の2学期に東川小学校に転校した。校舎の3階には戦災で家を失くした何家族かが生活していた。終戦から6年も経っている。3階が使えず教室の数が足りないので授業は午前と午後の2部学級に分かれていた。

4年から卒業まで、森田澄人先生にお世話になった。若い森田先生は鶴田浩二に似ていてハンサムだった。4年生の2学期の夏休み日記をえらく褒められ、内気な学級委員はこの時から国語が好きになった。

深川第一中学校に入学するとどういう訳か、生徒会の書紀になっていた。女子の一年ツルゲーネフ「初恋」生は高柳晶子である。四季酩酊第57回「初恋の人」の人である。当時の中学生なので深い付き合いは出来なかったが、心は悶々としていて、日記に想いのたけをぶつけていた。高校生になって晶子からの手紙に、パールバックの「大地」を読んでいると書いてあったので僕は読んでもいないのに意味深に、ツルゲーネフの「初恋」を読んでいると書いて送った。42歳の時、晶子をモデルに「女生徒」「嫁に」という短編を書いた。

女生徒を書いた当時、「かたりべ舎」という出版社の手伝いをしていて、季刊誌を発行していた。小平に住んでいらした、森田先生に創刊号を寄贈すると電話がかかってきた。話した内容はおぼろげに覚えている。しかし、この電話だけで賀状のやり取りも無いままに今に至っている。大事な人との繋がりは細くてもいいから持っていなければと後悔した。晶子もそうだ。2年3年と同じクラスで、高校に進学してからも往来は多少あったのに、いつのまにか別れている。そういう思いの人が、もう一人いる。

一学年上の書紀をしていた石野晃さん。一橋大学を出て資生堂に入った。漢字にすれば同じ、イシノヒカルという競走馬が菊花賞と有馬記念を制覇したのが1972年でその頃は会ったりした。そして資生堂が提供したTBSの沢田研二主役の「源氏物語」の向田邦子のシナリオの台本をいただいた。この時、新宿高野で食事をした。これが1980年でその後の石野先輩の記憶はない。

小説への憧れの原点は、森田先生、初恋の高柳晶子さん、そして先輩の石野晃さんの彩りが無くてはあり得なかった。

担任に褒められてから本が好き  酒坊