四季酩酊 第79回
新入社員の頃
酒坊

「てなもんや三度笠」が放映された昭和37年5月に、東京支店第2営業部サービス課に配属になった。台東区松永町27番地。昭和通りの5階建の5階にサービス課があった。(曖昧な記憶です)電話受付を少し経験してから、Sさんに付かされた。Sさんの技術を盗めと言われ、見ているとあっと言う間に修理は終わっているので、盗む処ではない。銀座の客で駐車場所が無いと、私が周辺をぐるぐる回りその間にSさんが修理をした。
数か月Sさんと一緒だったが、夏前に1人にさせられた。「お客さんの前で配線図を見てはいけない。全部頭の中に入れて措く。もしも解からなくなったらトイレを借りて見ること」と言われ、白黒テレビの配線図は頭の中に入れた。車を与えて貰えず徒歩だった。私の担当は、文京区・新宿区・千代田区・中央区だったと思う。銀座のデパートの地下に台秤があってサービス鞄を計ると14kgもあった。アルミニュームの鞄がズボンに擦れて銀の鱗がつき、混雑した電車の中で恥ずかしかった。左手にブラウン管右手に鞄という日もあった。でも、嬉しいのは私を待っていてくれる人たちである。当時のサービスマンは高度な技術者として崇められていた。
三木のり平や少年少女合唱隊の長谷川新一指揮者、構成作家のはかま満男に大毎オリオンズの山内一弘、講談師一龍齋貞鳳さん方々の家にずかずか入れたのは、修理という職業に就いていた僥倖だと思う。いろんな世界、例えば新宿2丁目のおかまバーなどに出入りできたのも珍しい経験だ。8月1日、社員採用の辞令をいただいた。
当時のサービス課は自由で、定時に退社しなくてもよかった。「もしも早く仕事が終わったら定時前でも帰っていいよ。そのかわり外階段で帰ること」と言われたり、車の社員は、昼頃までガソリンスタンドにたむろしていた。
徒歩での仕事は冬に入るまで続いた。少し慣れてきていい加減頭に来ていた私は社屋から近い御徒町のガード下で一杯ひっかけるのを覚えた。まだ、未成年だった。咎められた記憶はない。
12月からダツトサンで仕事をしたが、翌年3月に同級生の恋愛事件に絡み北海道への転勤を命ぜられた。
社に帰る途中にちょいと屋台酒 酒坊
小松小結 様
コメントありがとうございます。
いろいろと思い出しながら綴っていますが、書き終わってから重要なことを忘れているのに気付いても、遅い。構成表を作って書かないといけないですね。
できるだけ「文学青年私記」であるようにいきたいと思っていますが、身内の広報誌ですから余り赤裸々には書けないジレンマがあります。
挫折しないように最後まで書き続けることができるか不安です。
読んで下さる方が一人でもいれば続けられるでしょう。
今思えば、昔は自由がありました。
この編は新入社員の独り立ちの過程で、仕事の厳しさの中で先輩より教わったサービスマンとしての矜持=(敢えて文学的にコメントします)=です。それに疲れた後の暖簾くぐりの一杯は大人への一歩でしたね。
私の場合、配属は原価計算課で入社翌日から決算業務で工場で棚卸された部品・仕掛品・完成品等膨大な量の在庫金額算出で朝~夜までソロバン計算でした。
決算が終わると先輩に連れられ田辺工場に行き『通路やコンベアーの下や工員さん達の足元にビス、ネジ、ワッシャー等落ちていないか、一銭、一円でも無駄は経理としては見逃してはいけない』と教えられました。
私も仕事帰りは若葉寮へ帰る途中で西田辺周辺で友達とわいわい言いながら酌み交わす事が年々増えて行きました。
お酒に対する私のモットー?「目の前の酒は必ず飲んでおけ、次も飲めるとは限らないのだから」です、でも今は自粛していますので誤解の無いようにお願い致します。 では次編待っています。