第304回2026年10月例会「皇居内堀を一周して江戸城御門(橋)とお濠を巡る」実施報告

二重橋前にて

実施日  2026年10月17日(土)
集合   地下鉄東西線 「竹橋」駅 1a 出口  午後1時集合
参加者  21名(内2名は会員の同伴者)
天候   快晴 気温26度 さわやかなウォーキング日和でした

今日は雲一つとない晴天に恵まれました。気温は26度程度で9月半ばの気温でしたが湿度が低くカラッとした過ごしやすい気候で、久しぶりのウォーキング日和となりました。このコースは昨年(2025年)5月例会として、また今年の6月例会として計画しましたが、いずれも悪天候が予想されたため【直前に中止】と決めた経過があります。今回は3度目の挑戦ということで神様も私たちにプレゼントをしていただいたかのような良い天候の中、参加者21名が地下鉄東西線「竹橋駅 1a」 出口に集合しました。

健康歩こう会では「おしどりキャンペーン」として家族同伴の参加を勧めていますが、今日の例会では2名の方のご家族の同伴参加がありました。

時間より5分ほど早く、参加予定の方が全員集まりましたので、さっそく例会開始です。

今回のウォーキングマップ

お渡しした資料

スタート前

今回は、江戸城・皇居という日本の政治の中心となった場所で400年を超える歴史を積み重ねてきた場所ですから、いつもの例会と異なりスタート前に江戸城の成り立ちから皇居になったことなどの歴史の経過を本日の案内役の柿本からお話ししました。
江戸城の成り立ちは、平安末期に「江戸重継」が麹町台地の東端に居館を築いたことが最初であること。江戸の地名はこの「江戸重継」から来ていること。江戸氏を攻略した扇谷上杉家の家臣「太田道灌」がこの地に築城をしたこと、(一般にはこれが江戸城の最初とされています=1457年完成=)その後、北条氏の傘下に入り小田原北条の支城の一つになったこと。小田原城が秀吉による小田原征伐により滅ぼされた後、徳川家康が関東に封じられて江戸に居城を決めたこと。 などを簡潔に振り返りました。特に注目する事は、家康が江戸に来た際、江戸城は現在のような立派な城ではなく、小田原北条の支城であり、天下統一を目指すには程遠い貧弱な城だったことです。家康、秀忠、家光の3代にわたり江戸城の改築を進め天下の大名たちに「天下普請」と言われる普請を行わせて大名たちの財力をそぎ落としながら江戸城をよくするということを実施しました。江戸城には3たび天守閣が建築されましたが、家康が建てた最初の天守は防御力が高い連立式天守でした。20年もしないうちに火災で天守がなくなり2代目の天守は秀忠が建てました。しかし連立式ではありませんでした。この天守も火災で焼失してしまいます。3代目家光が3度目の天守を建てましたが、これも単独天守でした。家康が連立式天守を建てた理由は、天下人になった後も大阪城は残っており、豊臣秀頼が大阪にいたこと、豊臣恩顧の大名が大勢いたことなどから天下を治めることに怖さを感じていたのではないかと思われます。そのため連立天守にしたのではないか。などの説明もありました。参加者へのクイズは、このような冒頭の話が長くなることで、みんなに考えながら参加してもらうという趣向でクイズを出しながらの説明をしました。

問題1 千代田区の中心部に大きな江戸城がありますが、千代田区の面積の何パーセントくらいを江戸城が占めていますか?

問題2 滋賀県の面積のうち琵琶湖は何パーセントを占めていますか?

問題3 琵琶湖と淡路島はどちらが大きいですか?

参加者の皆さんに考えてもらいました。回答は後程記載します

さて、約260年に及ぶ徳川幕府の世が終わり、明治に移ることになりますが、これまで1175年もの長き間、京都におられた天皇が京都から江戸に移られます。これまでの「江戸城」は「皇居」と呼ばれるようになりましたが、明治21年から「宮城」となりました。その後昭和23年からは「宮城」の名前が廃止され再び「皇居」となりました。

今日、最後の問題です
問題4 皇居(天皇のお住いその他)が旧江戸城の本丸ではなく、旧江戸城西の丸に置かれたのはなぜですか?

クイズを出し、参加者みんなで考えるという新しいことも含みながら江戸城の成り立ちから皇居になるまでを概略ではありますが理解していただき、いよいよウォーキングスタートですが、その前に準備運動をして体をほぐします。

皇居周辺は、多くの人がランニングを楽しんでいますが、ランナーと道を譲り合ってウォーキングをするようにとの注意と、ランナーたちとぶつからないようにランナーの逆方向にウォーキングをするなどの注意のあとスタートしました。

平川門

「平川橋・平川門」に移動します。平川門のたもとに大きな石碑があります。石碑には細かな文字がたくさん並んでおり読みにくい状態です。また、この石碑の内容を解説した立て看板もありますが、看板の文字は日焼けして全く読む事が出来ません。案内役の柿本から「太田道灌が江戸城を築城した功績について書かれている」という説明と、この石材は虎ノ門あたりの石垣につかわれていた石材を使っているとの説明がありました。

平川門は、旧江戸城の大奥に最も近い橋だったので、大奥の女性が城外への用事の際にこの門から出入りした。またそれとは別に城内で不祥事を起こした罪人や死人を城外に出すのは平川門と決まっていたので、この門は「お局御門」または「不浄門」など呼ばれました。
松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭も罪人としてこの平川門から城外に出されました。

一橋徳川家の屋敷跡

平川門から、道路を渡り反対方向に行くと、一橋徳川家の屋敷があった場所があります。ここでは、御三家、御三卿についての説明がありました。お世継ぎと言われる将軍の後継者である男の子が居なくなった場合、御三家からお世継ぎ(次期将軍)を出すという目的で御三家がつくられました。それでもなお不安なのでさらに御三卿がつくられました。
御三家は尾張、紀伊、水戸 の各徳川家であり、御三卿は、田安、一橋、清水の各徳川家を指します。8代将軍吉宗は、紀伊家から将軍になりました。徳川最後の将軍「慶喜」は、水戸家の生まれで、一橋家に養子に出され、その後15代目将軍となったことの説明もありました。

御三家と言えば、「西郷輝彦、橋幸夫 ともう一人は?」  との質問に 「舟木一夫」 との正解が出て、参加者は心をなごませて「歌謡番組は大好き」と発言する参加者もおりました。

田沼意次屋敷跡

説明の石碑などはありませんが、次のブロックである、現東京消防庁から経団連会館のあたりが、田沼意次の屋敷があった場所です。田沼意次は、昨年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で何度も出てきましたが、ここで昨年の健康歩こう会「蔦重の故郷、新吉原に行ってみよう」の案内役を務めた有田幹事から、簡単に田沼意次についての説明がありました。「田沼意次は、多くの善政に取り組んだが、一方でわいろの田沼 といわれる面もあった」との説明でした。

平将門の首塚

もう一つ次のブロックに移ると「将門の首塚」があります。平安中期の武将ですが関東で反乱を起こして敗死してしまいました。処刑を受けたあと京都で「さらし首」にされましたが、将門の首は何ヶ月たっても目を見開き、歯ぎしりをしているように見えていたとのことです。首は、故郷の関東の方向に飛んで行ったと言われており、降り立ったのが、現在の将門塚のあるこの地だったそうです。以来、近隣住民は将門の怨霊に苦しめられたそうですが日輪寺、神田明神が供養して怨霊を治めました。

しかし、関東大震災で、塚が倒壊したことで怨霊は再び猛威を振るい始めます。

将門塚の跡地に旧大蔵省が庁舎を建てようとしたところ工事関係者や省の職員に不幸が相次いだ。出来上がった庁舎に雷が直撃したり、時の大蔵大臣が急死したりしました。

戦後には、GHQがこの場所に駐車場を造ろうとした際、重機が横転する事故があり作業員が死亡した事故もありました。

このような事から日本の「三大怨霊」の一つと数えられています。怨霊が参加者に及ぼすことが無いように、参加者それぞれ、お参りをしてきました。

和田倉橋・和田倉門

この地にはかつて蔵があったとのことで「蔵の御門」ともよばれています。関東大震災で焼失しましたが、現在の橋は昭和29年(1954)に復元完成しました。橋の土台はコンクリート製とのことですが欄干には木材を使用しています。親柱を飾っている擬宝珠(ぎぼし)は以前の橋に使用されていたものです。現在は、だれもが自由に通行出来ますがかつては、当時は武士だけが通行を許されていました。明治天皇が明治元年に初めてご東幸の際は、この和田倉門から江戸城に入られたそうです。

参加者より、この橋に使っている木材はどんな木ですか  との質問がありましたが残念ながらその時は「わかりません」としかお答えできませんでした。帰ってからネット(AI)で調べましたがネットでも使用している木材(ヒノキ、スギ、ケヤキなど)は宮内庁から公表されていないので木材の種類は不明との回答しか出てきません。

質問された方申し訳ありません。どなたか分かった方はお教えください。

和田倉門は典型的な「枡形門」の形です。お城の防御の方法としての枡形門についての説明をしました。

和田倉噴水公園

和田倉門から進むと、噴水のある近代的な公園になります。この公園は昭和36年に現在の上皇陛下のご結婚を記念につくられました。その後平成7年に天皇陛下のご結婚を機に再整備されたものです。


ここで、しばらく休憩を取りました。

桔梗門

江戸城本丸南の通用口です。正式には内桜田門と呼びますが、徳川家康が入府する際、太田道灌時代の名残を残す桔梗紋の瓦が残っていたから「桔梗門」の呼び方があるとの説がありますが定かなことは不明だそうです。門の鬼瓦には現在も「桔梗紋」が施されています。

坂下門

現在の宮内庁の一番近くにあります。そのため、宮内庁関係の出入りに使われています。参加者から、「坂が無いのになぜ坂下門というのですか?」との質問がありました。

坂下門を通り、江戸城本丸や、西ノ丸方面に行く際、坂を上ってゆく形になっているので、江戸城内から見れば、坂の下にある門ということから「坂下門」という名前になっていることをお答えしました。案内しながら、参加者にクイズを出しましたので、参加者の方から逆に案内役に質問(クイズ)を出されたように思えます。

二重橋

皇居前の広場を通り二重橋前に出ます。正式な名称は「正門石橋(せいもんいしばし)」、「正門鉄橋(せいもんてつばし)」と言います。国賓や外国大使の赴任の際など皇居を訪問されるお客様、あるいは年始、天皇誕生日などに実施される国民の一般参賀などの入り口として、皇居の正門となるところです。手前に石橋、奥に鉄橋があり、これらの橋ができる以前は木製の橋が架かっていました。奥にある鉄橋は濠から高い位置にあり昔は高い位置に橋をかける事が出来なかったので、中間の高さに橋をかけ、さらにその上に橋を架けて二重構造にしたので二重橋の名前がありました。鉄橋にした際そのような二重構造の必要がなくなりましたが、二重橋の名前が残りました。いつしか、手前の石橋と奥の鉄橋がおなじ濠に二つ重なってかかる橋だから二重橋と言われるようになりました。宮内庁では、二重橋は正式には「正門鉄橋」のことをさすとしながら「二つの橋の総称としても用いられる」と説明をしています。

桜田門

江戸時代には、外桜田門と呼ばれていましたが、現在は「桜田門」呼ばれています。

幕末の安政7年(1860)脱藩した元水戸藩士らにより時の大老井伊直弼が討たれた「桜田門外の変」が発生しました。当時の井伊家の屋敷は現在の「憲政記念館」のあたりです。江戸城に出勤するために桜田門の前に差し掛かった際、事件が発生しました。事件についての概要を説明しました。将軍継承問題、ペリーの来航に伴い開国派として日米修好通商条約を締結したこと。また、このような井伊大老の政治に反対する尊王攘夷派の活動家などを捕らえた「安政の大獄」に対する反発などが原因でこの事件が起こりました。
参加者からは、井伊大老が討たれたのはどのあたりですか?との質問もありました。

ここで、参加者の皆さんに本日の宿題のクイズをお渡ししました。

お渡ししたクイズの問題(宿題です)

半蔵門

表門にあたる大手門あたりは強固な石垣で築いていますが、半蔵門側は裏手にあたりいわゆる「搦手(からめて)門」となります。このあたりは幅の広い濠と自然を生かした土塁で作られています。

甲州街道に面する半蔵門は江戸城有事の際には甲州街道を通り、八王子から甲府に逃れるルートが想定されていました。

千鳥ヶ淵

桜の名所として有名な千鳥ヶ淵ですが、池の形が「千鳥」に似ているからということだそうです。

竹橋

スタートした竹橋に戻りました。現在の橋は石でつくられていますが、昔は竹で作られていたのでこの名前が付いたとのことです。

参加された皆さんお疲れさまでした。今日は江戸城、皇居を徹底して勉強する事が出来ました。お疲れさまでした。

コース途中で出題したクイズの答え

ここで途中に出したクイズの答えをお知らせします

  • 千代田区の中心部に大きな江戸城がありますが、千代田区の面積の何パーセントくらいを江戸城が占めていますか?
    回答  千代田区の総面積は11.66㎢  皇居の面積は 1.42㎢ で 約12% となります
  • 滋賀県の面積のうち琵琶湖は何パーセントを占めていますか?
    回答  滋賀県滋賀県全体は4,017㎢ 琵琶湖は669㎢  約16.7%です
  • 琵琶湖と淡路島はどちらが大きいですか?
    回答  琵琶湖 約670㎢  淡路島 約596㎢  琵琶湖の方が大きい。
    淡路島は走ったら約1時間で走り抜ける事が出来る。琵琶湖はもっとかかるので琵琶湖の方が大きい。と回答した人もいました。
  • 皇居(天皇のお住いその他)が旧江戸城の本丸ではなく、旧西の丸に置かれたのはなぜですか?
    回答  慶應4年(1865)に明治天皇が江戸城に遷幸されました。その後一旦京都にお帰えりになり、翌年に東京にお戻りになりました。
    しかし、江戸幕府の中心だった御殿は慶應3年に火事で焼失してしまいました。そこで明治天皇は西ノ丸にあった御殿をお使いになりました。

終了

これで本日の予定は終了です。来月の例会での再会を約束して解散となりました。

宿題として参加者の皆さんに出したクイズの答え

今回のコースを案内して感じたこと

基本的に毎月、健康歩こう会の例会を実施しています。歴史にゆかりのある場所に行くことも度々ありますが、例会そのものをとってみると、断片、一コマとしての歴史の事実です、しかし、今回のウォーキングは江戸城の周辺のウォーキングでしたので、過去のウォーキングで出てきた事件・史実などとの結びつきが多くありました。

・大河ドラマ関連の例会「蔦重の故郷、新吉原に行ってみよう」では浅草を中心に歩きましたが、登場人物は江戸城にゆかりのある人たちでした。
・水戸脱藩浪士たちが、「桜田門外の変」を実行するその日の朝、現在の港区愛宕山にある愛宕神社で祈願をしてから事件現場に向かったことを思い出す人もいらっしゃったのではないかと思います。
・「赤穂浪士の討ち入り後を歩く」で浅野内匠頭の屋敷跡など訪れたり、当時の吉良家屋敷(両国)から泉岳寺まで歩いた際の例会を思い浮かべた会員もいらしゃるのではないかと思います。赤穂浪士にゆかりの場所は、数度に笑る例会で、都度、「ここが〇〇の地です」と説明した記憶があります。
・また、桜田門外の変に関連して、世田谷の豪徳寺(彦根藩井伊家の菩提寺)を訪問した際のことを思い浮かべた会員もいらっしゃるものと思います。
・江戸城を築城した「太田道灌」の話の際には、「やまぶきの花の短歌」の話を思い浮かべておられる会員もいらっしぃました。越生梅林に行った際の「やまぶきの里歴史公園」を訪問したことを思い浮かべた会員も多かったのではないでしょうか。

歴史は、断片的な事実を知ることだけではなく、いろいろなことが関連しています。健康歩こう会の毎月の例会では、断片としての説明となりますがジグソーパズルのように断片をつなぎ合わせることで時間軸だけでなく、関連した人たちの別の考え方を考察することなどによる横への広がりも含めて連続で広がりを持った歴史を理解することなります。

このように、歩こう会例会では、以前に訪れた場所との関連が出てきたりしますので、特に歴史好きな会員は、毎回参加されることをお勧めします。頭の中で以前訪れたあの場所とのつながりを感じていただけるのではないかと思います。 歴史が好きではないという人も是非参加していただけると歴史が面白くなってくるのではないでしょうか?
健康歩こう会では、第82回例会(2007年1月)以降の参加記をホームページでいつでも閲覧できるように保存されていますので、参考にしていただく事が出来ます。

文章作成   柿本政昭
写真撮影   辻井 勝
       伊東哲也

    “第304回2026年10月例会「皇居内堀を一周して江戸城御門(橋)とお濠を巡る」実施報告” に対して2件のコメントがあります。

    1. 山村伸明 より:

      柿本さん 写真担当の辻井さん 伊東さん
      参加のみなさま方大変お疲れさまでした。
      今回の「皇居内堀を一周して江戸城御門(橋)とお濠を巡る」は盛りだくさんの内容で読み応えがあり何度も首を縦に振る事がありました。中でも桜田門で彦根藩主第13代井伊直弼が討れた「桜田門の変」は教科書の歴史でも習いました。また、クイズで琵琶湖と淡路島ではどちらが?はどちらかを1回転すると丁度重なりますね。・・・琵琶湖は日本一です。
      私は滋賀生まれの 6665 山村伸明

    2. 柿本 政昭 より:

      山村さん

      コメントをいただき有難うございます。健康歩こう会では単に歩くだけでなくその土地に関連した知識を学びながら楽しく歩こうと試行錯誤しています。また、そのような関連した事項をつなぎ合わせることで大きな知識に発展することも目指しています。
      参加された皆さんが、知識を増やしながら楽しく歩けることを今後も心がけて運営してゆきたいと考えています。よろしくお願いいたします。
      柿本 (3256)

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