11月3日は、我々シャープの創業者早川徳次の誕生日です。しかも、今年は生誕から数えて130年となる記念すべき日です。社友会東京支部・健康歩こう会合同で、この記念すべき日に、早川徳次創業者のゆかりの地を巡るウォーキングツアーを実施しましたので、状況を報告いたします。
実施日 2023年11月3日(金曜日・文化の日祝日)
参加者数 社友会会員26名 現役社員 3名(奥様1名含む) 合計29名
天候 暑かった今年の夏の暑さを思い出させる一日
歩いたコース
地下鉄人形町駅(スタート) ― 生誕の地 ― 養子に行った先 ― 会社創業の地 ― 結婚・新工場の地 ― 元シャープ江東ビル ― 丁稚奉公に行った先 ― 両国駅(ゴール)
※ほとんどのゆかりの地は、ピンポイントで「この場所」がわかりません。これは、関東大震災、第2次世界大戦の空襲と2回も被災していること。当時と住居表示が変わっていることなどによるものです。
今回のウォーキングイベントで出発前や休息時間などに参加者の皆さんは
- どこそこの新社屋完成披露の際、早川社長に来ていただき、その際優しくお話をしていただいた。
- 退職のあと、会社からいただいた表彰状を整理したら、早川徳次社長の名前の表彰状が数枚あった。
- 社員研修の際早川社長にお越しいただいてお話をしていただいた。
- 早川社長の居間にカラーテレビを据え付けに行き、仕事が終わった時に帰宅され、近い距離でしばらく話をしていただいた。
- 昔は、成人の日を会社でも祝ってもらい、早川社長からお話をしていただいた。記念品として「和敬」と社長が書かれたバッチが表紙に張り付けてある「アルバム」と「紅白饅頭」をいただいたことを覚えている。
などの早川社長との思い出を参加者同士で懐かしくお話をされていました。また、「私と事業」の早川徳次社長が執筆された著書や、取引先に配布されていた機関誌を持参された会員もいらっしゃいました。
参加された社友会会員はみな早川社長との接点の中で、その暖かい人柄を懐かしむ気持ちを新たにしておられるように感じられました。
また、ゆかりの場所を巡りながらの感想もそれぞれ
- この場所で生誕されたのはどのような家だったのかなぁ~
- 養母に折檻されていた時の徳次少年の気持ちはどんなだったのか、かわいそうすぎますね。
- 真面目さが認められ、可愛がられながら職人の技術を身に付けたことが、のちの技術のシャープにつながったんだなぁ~
またそのような中で成長されたことがシャープ社長として従業員を大切にする気持ちが強くなったことに繋がっているんだなぁ~ - 一部のゆかりの地の場所がどうしてもわからなかった。ここがわかっただけでも今日、参加してよかった。
- 会社創業の地に小さくても「シャープ創業の地」の石碑を立てるとよいのに・・・
などそれぞれに口にしておられました。
ウォーキング終了後の懇親会では21名のウォーキング参加者が参加され早川社長との自分の接点に話を咲かせていました。参加された皆さんが今日は特別においしいお酒を酌み交わしておられる様子で、幹事一同これまで準備してきた苦労が報われた気持ちで、実施してよかったと感じさらに、社友会会員同士の絆がこれまでに比べより一層強まったことに寄与することができたことを感じながら特別例会を終了することが出来ました。
以下に、訪れた場所と早川徳次社長が過ごされた概略を記載します。一部、訪れた順序と異なりますが、早川徳次社長が過ごされた人生に従い記載します。
生誕の地 徳次1歳11か月まで
(当時の町名 東京市日本橋区久松町42番地 現在の町名 東京都中央区日本橋久松町7番地2)
創業者早川徳次が生誕された場所です。現在は、「久松警察署」と「久松小学校」の境目あたりにあった長屋の中の一軒で生誕されました。明治26年(1893年)11月3日のことです。父 早川政吉 母花子
父政吉は「ちゃぶ台」の製造販売をしていました。母花子は愛媛県知事「関新平」に嫁いだが実家の袋物問屋に戻っていました。
- 生誕の地付近(久松小学校)
- 生誕の地付近(久松小学校)
養子先 徳次1歳11か月 から 明治34年9月(8歳)まで
(当時の町名 東京市深川区東大工町36番地 現在の町名 東京都江東区白川2丁目14番、21番、23番)
創業者早川徳次は、生後1歳11か月で養子に出されました。理由は、母花子の仕事の下請けをしていた「出野」さんが徳次をとても可愛く思い、生母花子が忙しいこともあり、時々家に連れて行っていた。子供のいない出野さん夫婦が自分たちの子供にしたいという気持ちが強くなってきたこと。加えて生母花子の仕事が超多忙を極めていたこと。などによります。
出野さんの養子にするにあたり
1,生みの親(出自)を明かさないこと 2,普通以上の教育を受けさせること
を約束した養子でした。
出野さん夫妻にとても可愛がられていましたが、徳次が4歳になったとき、養子先の母が急死されました。近くにいる叔母が面倒を見ていたが、やがて若い後妻が来ることになりました。後妻は、徳次に厳しく当たるようになりますが、後妻に子供ができると厳しさはさらにひどくなっていきました。養子の際の約束であった教育に関しては、私立筒井尋常小学校に入学しましたが2年生になる際に退学させられていました。家では内職のマッチ箱にラベルを張る仕事を手伝わされていました。
幼い徳次に対する厳しい折檻ぶりを見るに見かねた近所の盲目の祈祷師(井上さん)が住み込みの丁稚奉公先を世話してくれました。
- 養子先付近
- 養子先付近
丁稚奉公先 徳次8歳(明治34年9月) から 19歳(大正元年9月)まで
(当時の町名 東京市本所区本所北双葉町2番地 現在の町名 東京都墨田区石原1丁目7番、20番、21番)
盲目の祈祷師井上さんが世話をしてくれたのは錺職人坂田芳松氏のところでした。坂田氏は当時、金属で洋傘の部品を作る仕事をしていました。弟子、小僧を含めて20名ほどいた中の一番下の立場でしたが、職人や先輩から良く可愛がられました。作業にも興味が持てて新しい技術を一つ一つ覚えるのが何よりの楽しみでした。徳次が16歳の時(明治35年(1902年))坂田さんが新たに鉛筆製造に手を出して失敗し、工場を倒産させました。ほとんどの従業員はいなくなってしまいましたが徳次はもう一人の従業員と共に親方のもとに残ことにしました。帰る家は、出野の家で折檻された思い出しか残っていない家には帰る気になりませんでした。
17歳の時(明治42年(1909年))に坂田家における7年7か月の年季奉公を終え、向こう1年間のお礼奉公に入ります。
- 丁稚奉公先付近
- 丁稚奉公先付近
独立創業 徳次19歳 大正元年(1912年)9月15日
(当時の町名 東京市本所区松井町1丁目30番地 現在の町名 東京都江東区大橋3)
坂田家を離れ、従業員二人と共に金属加工業を創業した。当時の主な生産品は
1,徳尾錠 2,水道付属器具 3,洋傘の飾り金具の下請け
でした。
独立した際の資金は50円でうち40円は親方坂田さんの仕事仲間の巻島さんからの借金でした。借金の40円は数か月の中に返済することができました。
これが、我々シャープ(当時はそのように読んでいませんが)のスタートとなりました。
- 創業の地付近
- 創業の地付近近
新工場移転 徳次20歳
手狭な松井町の創業の地を1年足らずして移転しました。残念ながら徳次の自伝などにこの場所の記載がなく、場所の特定ができていません。
結婚&工場移転 徳次21歳
(当時の町名 東京市本所区林町2丁目35番地 現在の町名 東京都墨田区立川1丁目15番)
大正3年3月文子と結婚しました。同時に住居兼仕事場を新たにしました。1階は仕事場(工場)で2階は住居です。職人も増やして7名となりました。
金属製の繰り出し式鉛筆を考案して銀座の伊東屋にサンプルを置いてもらったが、当時はまだ着物文化の世であり、売れ行きは芳しくありませんでした。海外で評判を得て売れるようになると、国内でも注文が殺到するようになってきました。
兄の政治と共に「早川兄弟商会 金属文具製作所」を設立しました。
「出野」から「早川」の名前に戻しました。
大正7年には従業員100名を数えるようになり、業績は順調に拡大していました。林町の自宅兼工場も徐々に拡張して120坪となっています。さらに、亀戸、押上などに分工場を持つようになってきました。
- 結婚&工場移転付近
- 結婚&工場移転付近
関東大震災発生 徳次30歳 大正12年(1923年)9月1日
関東大震災が発生し、早川家の家族(9歳と7歳の息子さんはその日のうちに、妻文子さんは10月26日に亡くしました)
徳次は前年から過労が続き、 腸出血がありましたが、奇跡的に助かりました。震災当日は療養のために塩原に出発する直前で家族とは離れていました。ごくわずかの生存者の中に徳次も入って震災から生き延びる事ができました。
関東大震災の後
震災の火災を免れた亀戸工場に従業員と移り、被災を免れた機械類に油をさすなど手入れをして使えるように整備をして事業の立て直しを計っていました。しかし、シャープペンシルの販売を委託していた「日本文具製造」から契約金と融資額などの返済の要求があり、これの返済のため
1.早川兄弟商会を解散し全事業を日本文具製造に譲渡する。
2.シャープペンシルに関する特許を無償で使用させる。
3.日本文具製造は早川兄弟商会に買掛金を支払う。
4.シャープペンシル事業を継続するため早川兄弟商会の主な社員を日本文具製造にて雇用する。
5.技術指導のため、早川徳次を6か月間技師長として迎える。 などの取り決めをした。
これに従い大正12年12月徳次は旧来の従業員14名と共に大阪に移ります。1年後技術指導を終えた徳次と14名の仲間たちは大阪田辺に「早川金属工業研究所」を立ち上げて万年筆の付属部品などを作り始めることとなりました。
元シャープ江東ビル
丁稚奉公先、創業の地など徳次ゆかりの地を担当する営業拠点「江東ビル」があった場所です。
竣工は昭和45年(1970)
平成20年(2011)まで営業をしていましたが現在は売却されてマンションとなっています。
竣工当時、地元のシャープ取引店(FS会)から「早川徳次の胸像」が寄付されて、江東ビル正面に設置されていました。この胸像は、現在幕張ビル1階に設置されています。
江東ビルに勤務していた会員も多く、ビルの横の中華料理屋さんは、誰もがお世話になった懐かしいお店です。当時の大将、奥さんともお元気でおられ、懐かしい再会に話を咲かせた会員も多くいました。江東ビルからマンションに代わって十年余りですが、この中華屋さん以外は周りの様子が変わっているところが多く、なつかしさを求めて中華料理屋さんに集中した感じもありました。
- (元)シャープ江東ビル
- 栄来軒
- 栄来軒ご夫妻
以 上
文章作成 柿本 政昭
写真撮影 北村 卓士
同上 有田 知義
同上 増本 哲夫
〔敬称略〕

















カナダのナイアガラの滝の街からです。
私も大阪からですが 早川徳次氏の人生を知れば知る程 鳥肌が立つ思いで心が躍ります!関東大震災での家族損失 此の測り知れ無い大試練も乗り越えて 世界の人々に愛用される品々を提供され続けて来られた彼には人間性の尊厳さを授けて頂いた思いです。
生きる事への勇気付けられるお話 有難う御座いました。