四季酩酊 第99回
川崎時代 日本全国昼休み
酒坊
記憶違いがあった。二人誌の発行も流氷の旅も横浜時代ではなく、川崎時代だった。住み家が横浜だったので間違ったのかも知れぬ。断捨離の途中で、昭和54年8月1日付の佐伯社長からの辞令が出てきた。川崎への転勤は36歳だった。
中途半端な時期の移動には理由がある。4月の定期異動で、川崎に赴任してきたのは九州大分のUだが、部長から毎日のように厳しい言葉を投げられ続け、耐えきれずに3カ月余りで国に帰ってしまった。急なことであったが横浜支店の傘下だったので志願して川崎営業所の責任者になったのである。
エンジニアリング部門だが収益の計画達成は厳しく追及された。入社の頃は、製造部門の補填でやっていたのが、独立採算性になると、修理代やパーツの売り上げだけでは食べて行けなくなった。ジュースの自動販売機の設置・補充・回収・空き缶の回収などもしたが、それらは所長の仕事だった。夏は回収した空缶が車内に充満して臭かった。伊豆大島のホテルや旅館に静岡営業所が卓上ゲーム機を150台ほど設置した。インベーダーゲームが爆発的にブームになった頃で、ゲーム代を当て込んだ事業だが、静岡が途中で手を引いた。私のところに依頼が来たので引き受け、2カ月に一度大島まで回収に行った。その内、半年に一度でも採算が取れなくなり、行くのを止めた。サービス業だけでは採算の取れない会社は、その後、新規事業部門を発足させるようになる。
川崎営業所といっても所在地は東京である。東京第一流通センターの中にあって、多摩川に隣接していた。最寄り駅は京急の六郷土手である。販売店のK電化センターの社長にゴルフを強要されていたので、河川敷で素振りをしたりしたが元よりやる気の無さと運動神経の無さでの上達は覚束ない。デビューしたのが名門の「よみうりカントリークラブ」で第一ホールの第一打で池ポチャをやらかし、スタートを待っていた人達の哄笑は今でも忘れない。
昼食後に広い駐車場でテニスをした。所員が少ないので留守番はいない。恐い上司が電話をしても出る者がいない。問い詰められた時に「日本全国昼休みです」と言ってやった。
社内旅行は少人数なので、女子社員の友だちも参加した。Oさんは翌年に「ゆめ」という絵本を出した。文を婚約者が書き、彼女が絵を描いた。皆で飲みに行き、もんたよしのりの「ダンシング・オールナイト」を唄ったのを今も思い出す。
この頃、困ったことに緑内障が再発した。結婚前の函館で眼圧が異常に高く、失明の危機になって以来の酷さだ。白い紙が茶色に見える。白壁が剥がれて見えた。病院に通っても眼圧は低くならず観念した。ペンタックスMEを買い、休みの日はマクロやズームで花の写真ばかりを撮っていた。
川崎営業所に3年いた。流氷のロマン「寒紅」(14枚)を書いただけの3年間だった。

