第256回例会 「超高級住宅街を探訪する」を実施しました
第256回例会 「超高級住宅街を探訪する」は、快晴であるが寒いという関東独特の冬の天候の中実施しました。
健康歩こう会では参加して良かった、楽しかった、新しい発見があった、感動した。と思っていただけるコースを選んでいます。今回は、NHKテレビ「ブラタモリ」で取り上げられた田園調布の街並みを歩くコースです。このコースを担当した柿本が、「ブラタモリ」の番組を見て、このコースを皆さんに紹介できないかと種々勉強と準備をして、コースとしてまとめたものです。
集合場所の東急東横線・目黒線「田園調布駅」には元気な会員21名が集合しました。この地区がなぜ高級住宅街となったのかをタモリさんになりきって、解き明かすことに挑戦です。
田園調布地区
田園調布(でんえんちょうふ)は、東京都大田区の最西端に位置し、世田谷区最南端に隣接、西側を流れる多摩川を都県境として神奈川県川崎市中原区の東側になります。田園調布は、1918年(大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により開発、1923年(大正12年)8月から分譲された地域です。大正初期、東京の中心では急激に人口が増加し、狭い土地に家がひしめき合あっていました。都心を離れ、人々が快適に暮らせる住宅街を作ることは急務だったのです。白羽の矢が立ったのは、まだ開発の手が入っていなかった東京の南郊。田畑が多く人家が少ない場所だからこそ。ゼロから理想の街をつくることができたのです。このように新規開発の地には、当時の日本にはなかった斬新な発想も盛り込まれました。その一つが田園調布の駅前の構造です。半円形のロータリーがあり、放射状に3本の道が伸びる様子は日本にはあまりない構造です。
- 田園調布駅のモニュメント
- 出発前のコース説明です
- 今日歩くコースは?
カーブの道にしたのは
直進の道にするよりも、カーブの道のほうが視界の中心に生垣の樹木の緑が入る。これが見る人に心地よさや安心感と安らぎを与える効果を狙っています。道がまっすぐだと樹木は左右に分かれてしまいます。常に緑が中心に見えるようにすることこそカーブする道の重要な役割だったのです。生垣を作ることは、大正時代から田園調布の建築の規則として決まっていました。当時の資料では「障壁は之を設くる場合にも瀟洒(しょうしゃ)典雅のものたらしむこと」と書かれています。味気ない壁ではなく緑豊かな美しい生垣を作り、それがカーブする道を彩ります。この理念が計画当初から現在まで脈々と守られてきたからこそ田園都市は美しい住宅街であり続けられたのです。
- カーブの道を使った半円形の街並み
- 駅からのまっすぐな道
- カーブの道
田園調布の名前の起こりは
19世紀末から、イギリスでは郊外に緑豊かな街を作る「ガーデン・シティ計画」が進められました。この計画に明治政府も注目をし、取り入れることを計画。その際あてた日本語訳が「田園都市計画」でした。村の名前が「調布村」だったこと。イギリスのガーデンは「田園」と訳されて、「田園調布」となったということです。「田園」は庭園の意味であり、街全体が大きなガーデンになっているとも解釈されます。
田園調布が高級住宅街となったのは
開発当初は中堅層向けとしていた田園調布がセレブの街になった理由の一つに、「地形」があります。住宅地の先は急な下り坂、地形図で照らし合わせてみると、例の扇型の住宅地がすっぽりと大地の上に収まっています。台地のメリットは、高台なので水分が周囲の低い土地に抜けるため地盤が固く締まっていること。つまり地番が安定している土地であることが田園調布の価値を高めたということです。売り出し直後に発生した関東大震災で軍人たちがこの安定した高台の場所に移り住んできました。軍人たちは、都心から近く、なおかつ安定した地番の土地を目指したのです。合わせて目黒の海軍技術研究所や陸軍の駒沢練兵場などにもアクセスしやすい場所が選ばれました。多くの軍人が住むことになった田園調布が一躍、高級住宅街として名を上げました。その後、歴代の総理大臣や一流企業の社長、作家、映画スター、有名なスポーツ選手など各界のセレブが移り住んだので更に人気が沸騰。昭和62年には地価が一坪1,000万円を突破、住宅地として日本一となり、押しも押されぬもせぬ超高級住宅地となりました。
開発当初の建物
街の誕生当時の面影を今に伝える唯一の家があります。雑貨店を営む森さん宅です。道路に面して生垣が施されしゃれた雰囲気の、瓦屋根なのに洋風の作りで和洋折衷なお宅です。築85年を数えるという歴史のある家で、一部はリフォームしたそうですが構造自体は建築当時のまま残されているそうです。家は2LDKの平屋建てで大きなお屋敷というよりは庶民的。中堅サラリーマン向け住宅地として出発した田園都市の歴史を感じることができるお宅です。
お蕎麦屋さん「兵隊家」
お蕎麦屋さんを開業したのは陸軍の軍人でした。退役して店を始めるとき、周囲の人に覚えてもらえるようにとはじめた店の名前を「兵隊家」としたのだそうです。当時軍人は、人々の尊敬を集め老若男女から慕われていました。田園調布に移り住んできた職業の人の多くは軍人だったそうです。きっかけとなったのは、この住宅の売り出し公示直後に発生した関東大震災です。
- 蕎麦屋「兵隊家」
- 兵隊家の看板
田園コロシアム跡
線路を挟んで、反対側(東側)は住宅街とは様子がかなり異なります。こちらは完全な商業地域です。病院や学校、店舗が並びますが、田園調布では商店と住宅が混在しないように分けて町がつくられました。これも地形が関連していたようです。線路の東側は急斜面が多くまとまった住宅街を作るのは困難だったので、こちら側は商業地区として整備されました。さらに、不便な地形を利用して住民を楽しませる施設も作られていました。その一つが、田園ンコロシアムです。田園調布

田園コロシアムの跡地の一部は児童公園になっている
二丁目の田園調布小学校南側には、慶應大学の野球場が設置されていましたが、1936年(昭和11年)に、一部は多目的スタジアムである田園コロシアムに、残りの土地は「田園テニス倶楽部」に再整備された。田園コロシアムではテニスのデビスカップをはじめ、コンサート、プロレス、ボクシングなど大きなイベントが開催されたが、施設の老朽化に伴い、1989年(平成元年)に閉鎖解体されました。跡地はマンションとなっています。
多摩川園遊園地(田園調布せせらぎ公園)
田園調布一丁目には、1925年(大正14年)に田園調布の住宅街から至近距離に「温泉遊園地多摩川園」がオープンし、戦前は温泉と劇場、遊具を備えた総合娯楽施設がありました。湧水を利用して水族館なども作られていたとのことです。最盛期には年間100万人も訪れたと言われております。戦後は遊園地となり、昭和30年代には年間90万人を超える観光客を集めましたが、レジャーの多様化とともに衰退を辿り、1979年(昭和54年)に閉園しました。跡地は一時テニスクラブとなりましたが、現在は田園調布せせらぎ公園となって住民の憩いの場となっています。住宅だけでなく、近隣にアトラクション施設まで整っていた田園調布は地形と向き合い不利な条件も逆転の発想で上手に利用して作り上げた理想郷だということができます。
多摩川台公園の古墳群
古代の権力者がなぜこの地に競って古墳を築いたのかよくわかっていません。古墳が作られた時代は3世紀後半から7世紀末までのおよそ450年の間で、日本が国家として形成された時代です。北海道、東北北部と南西諸島を除く日本列島各地に巨大な前方後円墳をはじめとする、様々な古墳が作られました。多摩川下流域左岸の大田区田園調布から世田谷区野毛地区には、古代の南武蔵を物語る50基ほどの古墳群がありました。大田区側は「田園調布古墳群」、世田谷区側を「野毛古墳群」合わせて「江原台古墳群」と呼ばれています。田園調布古墳群は前方後円墳が多くつくられ、横穴式石室を持つ古墳も多いことがあげられます。
多摩川台公園には4世紀から7世紀にかけて造られた古墳が10基点在しています。これらの古墳群は、かつて都内に存在した古墳群の多くが都市化の波に埋もれてしまった中で、往時の姿をとどめている貴重な古墳群です。古代の権力者がこの地に競って古墳を築いた理由はわかりませんが、ここが古墳時代のセレブにも人気の場所だったことを物語っているようです。
亀甲山古墳(かめのこやまこふん) ~国指定史跡(昭和3年=1928=2月7日)~
東京都を代表する前方後円墳の一つで、多摩川流域最大の前方後円墳です。前方部と後円部の一部が削られていますが、旧状はよく残っています。築造当時の規模は、墳丘長107.25m、前方部幅49.5m、高さ7.63m、後円部径7.63m、高さ11.75m 墳丘の一部に一段の平担面を設けた二段築成であったと推定されています。発掘調査が行われていないため、正確な築造年代は不明ですが、4世紀前半に築造された宝来山古墳よりやや新しい形をしていることから、宝来山の次に作られた4世紀後半のこの地の首長墓と考えられています。
多摩川浅間神社
鎌倉時代の文治年間(1185~90)の創建と伝えられます。右大将源頼朝が豊島郡滝野川に出陣したおり、夫の身を案じた妻政子は、後を追ってここまで来ましたが、わらじの傷が痛みだし、やむなくここ多摩川河畔で傷の治療をすることになりました。
逗留のつれずれに亀甲山(かめのこやま)に登ってみると、富士山が実に鮮やかに見えました。富士吉田には自分の守り本尊である「浅間神社」があります。政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。村人たちは「富士浅間大菩薩」と呼び長く崇拝しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
- 多摩川浅間神社
- 多摩川浅間神社拝殿
東京急行電鉄(東急)について
渋沢栄一が東京府荏原郡(現在の東京都区部南西部=品川区、目黒区、大田区および世田谷区の一部)の宅地開発とその住民のための交通網と生活基盤整備のために創設した田園都市株式会社を源流とするグループ企業の一つであり、こうした設立経緯から東急電鉄以外の不動産部門、ホテル部門や生活サービス部門(小売業)などの収益が鉄軌道事業の収益をはるかに上回り、連結決算で見た東急グループ全体の営業収益(売上高に相当)は毎年1兆円を超えます。東急のグループ企業には、路線バスなど交通、不動産開発、小売業、ホテル・リゾートなどに221社8法人が名を連ねます(2017年3月末時点)。鉄道総営業距離は104.9km(2017年3月末時点)と大手私鉄16社中11位であるが、会社分割前の単体売上高はJRを除く日本の鉄道事業者で、東京地下鉄(東京メトロ)、近畿日本鉄道(近鉄)に次ぎ、また営業キロ当たりの単体売上高は25.4億円/kmと、東京地下鉄の17.3億円/kmの約1.5倍であり、他を引き離している(2011年度)。連結売上高は1位、利益は連結、単体ともに1位である(JRグループを含む場合は、連結売上高はJR東日本、JR東海に続く第3位であり、以下4位のJR西日本と続く)。距離は長くないが、鉄道としては優良な事業成績を上げている会社です。
12月例会では渋沢栄一・秀雄の親子が中心となって開発をした田園調布の街を歩きましたが、同時期に洗足地区の開発も行われ、これが好評だったので、多摩川台地区(田園調布)の開発・分譲が始まりました。このような住宅街を歩いて、参加された皆さんはここが高級住宅地になった理由を納得されたようでした。
典型的な冬型の天候でしたが、日の光が当たるところは暖かく感じる場面もありました。夕方になり、ゴールに近くなると少し寒さが厳しくなってきましたが、全員元気に年末の挨拶と来年の再開を約束して解散しました。
1月例会は 休会です
2月例会は 越生(おごせ)梅林を尋ねます。
実施日2月19日(土)
1月半ばに案内をします。多くの方の参加をお待ちしております。
文章作成 柿本政昭
写真提供 北村卓士さん(3038)










