第296回 2025年12月「蔦重の故郷、新吉原に行ってみよう」を実施しました。

実 施 日:2025年12月20日(土)
天気気温:曇り/13度
参 加 者:23名




師走の土曜日とあって観光客で混み合う浅草吾妻橋西詰花川戸交番前に23名の会員が集まりました。
最初に会長から、今回は今年最後の例会です、大河ドラマで話題の「蔦重」の活躍した、浅草・新吉原を散策します、終了後は懇親会(忘年会)を開催します、楽しんで下さい、と。また資料に来年度の歩こう会の計画書を入れておりますので予定をして頂き、多くの方のご参加をお待ちしています、との挨拶がありました。




次いで今回のコースリーダーの有田幹事からコースの説明がありました。その中で最初に行く浅草寺には観光客が一杯で、雷門から入って仲見世通りを通る王道コースは避けて途中の伝法院通りから行きます、この旗(シャープ社友会の旗)を目印に付いてきて下さい。との注意事項があり、スタートしました。
開催案内 >>>>>>> リンク
お手元資料 >>>>>>> リンク
喜多川柯理墓碧銘 >>>> リンク
コース地図 >>>>>>> リンク
混雑を避ける為、伝法院通りから入って浅草寺裏にある「山東京伝机塚の碑」に向かいましたが、この伝法院通りから浅草寺境内に行く道も観光客で溢れていていろいろの国の顔が見られました。日中が緊張関係にあるこの時期でも声高に話す中国人個人観光客の姿も多くあり、慣れない和服を楽しんでいる人も沢山見かけました。




そんな光景を見ながら進むと突如「旧五重塔跡」と刻まれた初代五重塔跡の石塔が現れました。浅草寺創建当時は三重の塔でしたが、火災や震災もあって、徳川家光によって再建されたのが五重の塔で、当時の模様は浮世絵「浅草金龍山」にも書かれていて知ることが出来、浮世絵では雷門から見て本堂の右側(石塔の場所)に位置しています。
この塔は、上野寛永寺(現存)、池上本門寺(現存)(または芝増上寺(焼失))、谷中天王寺(焼失)と並んで「江戸四塔」の一つと言われ親しまれました。







そして暫く歩くと弟京山が兄を偲んで建立した「山東京伝机塚の碑」が出てきました。
山東京伝は絵師、戯作者として才能を発揮し、蔦重の良きパートナーとして活躍した人物で、黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼」は最高傑作で不動の人気を築きました。また日本で初めて「潤筆料(じゅんぴつりょう)」という形で原稿料を受け取った作家とされ、蔦重から洒落本三部作の報酬として銀146匁(もんめ)(現代の価値で約45万円相当)を受け取った記録があります。これはそれまで「謝礼品」や「宴席」といった形式から、職業作家への道を開いた画期的な出来事とされています。更に話題は、莫大な費用(現在の価格では一人数千万円~約1億円以上とも言われています)が掛かる花魁二人を身請けして妻としました。一方、生活ぶりは至って倹約家で質素でした。当時は一般的だった代表者一括払いに対し、仲間との金銭トラブルを避ける為、参加者の頭数で均等に分担する「京伝勘定」を考案・普及させた人物として知られています。現在定着している「割り勘」の発案者でした。





さて次は今回のメインイベントの一つ「べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館」の見学です。NHKの大河ドラマ「べらぼう」は12/14(日)に蔦重の死で終了しましたが、このドラマに関する人物(演じた役者も)・建物・時代背景・生活の様子など、ドラマのシーンを思い起こさせる展示がされていました。また館内のビデオモニターでは4回のシリーズ映像が順番に放映されて、「蔦重が生きた世界」を分かり易く解説していました
“大河ドラマを見てないよ”という参加者もいましたが、知ってる役者や時代背景、歴代将軍の関りなど、その人の切り口で展示を楽しんでおられました。出口には入場券で浮世絵が出来る仕掛けがあって皆さん「摺師」になったつもりで楽しんでいました。
40分間の見学で記念のお土産を手にした参加者も居て満足した様子でした。

大河ドラマ館














次は江戸の文化をリードした芝居町「猿若町跡」の散策です。猿若町の由来は江戸歌舞伎の創設者とされる「猿若勘三郎(後の初代中村勘三郎)」にちなんで付けられました
江戸開府以来街づくりを最優先に進めてきた幕府は当初郊外の過疎地に芝居小屋や遊郭などの営業を公認してきましたが、街づくりが進み中心域が拡大し、町の中心部に位置することになって、市中の風紀粛正や火災防止を目的に、日本橋や銀座付近に点在していたものを郊外の地へ強制的に移転を命じました。
歌舞伎界では、それまで日本橋周辺にあった歌舞伎三座(中村座・市村座・森田座)と浄瑠璃の小屋を猿若町に移転させました。猿若町は役者や芝居関係者の住居や芝居茶屋が軒を連ね、江戸歌舞伎の中心地として賑わいました。今は芝居小屋があった場所を示す石碑のみが佇んでいました。











続いて足を運んだのが山谷堀公園(聖天橋)です。
山谷堀公園は、王子の音無川から隅田川に注ぐ水路を埋め立てた細長い公園です。
江戸時代には新吉原に通う水路タクシーとも呼ばれた「猪牙舟(ちょきぶね)」で賑わったと言われており、説明板と模型の小型猪牙舟が飾られていて当時を偲ぶことが出来ました。







そして少し歩いて、今回の主役蔦屋重三郎の菩提寺「正法寺」に到着しました。
この辺り裏浅草一帯は宅地化が進んで目指す正法寺は寺域の狭小さの為ビル型の
寺院(9階建て)となり、3階以上が室内墓地となっています。(平成6年より)
入って直の正面には少し薄暗い雰囲気でしたが立派な祭壇が祀れていました。蔦重の墓は1階の左手外にあり、蔦屋重三郎の親族と、版元蔦屋重三郎を継いだ歴代とその親族が葬られています。度重なる震災や戦災で本物は行方不明となっていますが、お寺の過去帳などから専門家が調べて当時の状態を再現した墓石が建てられています。参加者は墓石に彫られた難解な戒名を見ながら“蔦重のはどれ?”と悩んでいました。
墓石の刻まれた戒名の左から3番目が「蔦屋重三郎」のものと言われています。
墓石と並んで「喜多川柯理(蔦重)墓碧銘」と「実母顕彰の碑文」の供養碑が建っています。解読した詳細文は冒頭にリンクされていますのでご覧ください。








実母の碑文
そんな正法寺を後に山谷堀公園の「かみあらいばし(紙洗い橋)」へと進みました。
江戸時代水が豊富だったこの辺りでは製紙する小屋が多くあって、浅草や吉原をはじめ周辺から沢山の古紙が出た為これを再生紙へと加工していました。その工程の中で熱湯でドロドロに溶かした液体を冷ます必要があります。これには2時間前後の時間が掛る為、時間を持て余した職人たちは近くの吉原に遊女を見に行きました。金を持って無い職人達は遊ぶつもりもなく、ただただ見て廻るだけでした。一方遊女たち職人の汚れた足元を見て“あれは冷かしだよつ”と相手にしなかった様です。此処から「買うつもりも無い」のに声を掛けたりすることを「冷やかし」という現在語になったそうです。










休憩がてら蘊蓄学を楽しんで、いよいよ今回の目的地「新吉原」に向かいます。
今は埋め立てで面影もありませんが、今歩いている所は「日本堤」と言って浅草から三ノ輪を結ぶ幹線道路でした。吉原に行くには、猪牙舟や駕籠でここまで来て土手になっているこの日本堤を通て吉原に入りました。
そのシンボル「見返り柳」が見えて来ました。









見返り柳は新吉原で遊んだ客が「楽しかった時間・遊女」を思い出しながら思わず振り返ったと言われる場所に植えられていて、5代目見返り柳が当時を偲ばせています。
そして「五十間道」に入ります。ここはS字カーブになっていて新吉原の様子が見えないよう工夫されていて、これから行く別世界を期待させる演出と考えられています。その途中に義兄の経営する茶屋の一角を借りて貸本業を始め、吉原のガイドブック「吉原細見」で大成功し、経営の基盤を作ったとされる場所、「耕書堂発祥の地」がありました。今は、傍にカフェがあって看板に当時の間取りなどが説明されていました。
「吉原大門(よしはらおおもん)」が見えて来ました。今は質素な柱が両サイドに立っているだけですが、当時は厳格な別世界へ入れる唯一の入口でしたので、ちょっと期待外れ?
この大門は「明け六ツ(午前6時)に開き、引け四ツ(午後10時から12時)」に閉まると言われています。しかし、閉門は基本午後10時ですが、何かのイベントがあったり、季節によっては時間の延長が有ったりで、正直営業的には延長した方が儲かることから12時(午前0時)までのこともあった様です。黙認されていた様です。




当時の新吉原は裏浅草の郊外の田圃の中に移転を命じられた為、盛土をして周りに土塀(お歯黒どぶ)を巡らして別世界・遊郭を作りました。
その段差が「吉原公園」で見られますので行きました。盛土は最大14mも盛られて、洪水時には避難場所としての役割を果たした様です。





吉原公園の入り口は2~3m位の階段になっており、即実感出来ました。周りを眺めても今は宅地開発でなだらかになっているものの明らかに傾斜が見られました。町の区画は現在も当時と変わらず縦横同じ長さになっています。街並みも昔の名残を残してかソープランドの様なネオンの建物が何軒があって時折りタクシーが乗り付けていました。
江戸開府後、人家もまばらな湿地帯の辺鄙な所(現在の人形町付近)にあった「旧吉原」も先に行った「猿若町」同様、町の発展に伴い市中の中心地となった為、裏浅草(現在の千束地区)に移転を強制され、この地を「旧吉原」に対し「新吉原」と呼ばれました。移転後の「新吉原」は戦のない太平の世となって財力を蓄えた商人が武士を接待するビジネスの場としたり、江戸の男たちの「粋」を競う社交場であり、金さえ出せば武士も町人もなく、人間性を解放出来る唯一の場所となりました。
一方遊女が吉原から出るには「3つの方法」しかありませんでした。
【①年季を勤めあげる ②客に身請けされる ③死亡(病気・自殺・心中】
実際には金のかかる①②は少なく、廓内で終わりことが多く、浄閑寺で花又花酔が川柳で「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と遊女の過酷な運命を象徴しています
一方、蔦重や吉原の人は、「吉原細見」を作ったり、吉原の中央通り「仲の町通り」では3月は夜桜、6~7月は玉菊灯篭、8月は俄(にわか)、八朔(花魁道中)など観光地としての客寄せの工夫を凝らしていました。今のテーマパークですね。




これから行く「江戸新吉原耕書堂模擬店」が余り広くないので2班に分かれて見学しました。
吉原の中央通り(旧仲の町通り)の一角に、NHK大河ドラマに対応して「江戸新吉原耕書堂模擬店」が期間限定(26年1月12日まで)でオープンしています。街並み・生活ぶり・名物など復元し当時を偲ばせてくれます。ガイドさんの説明や映像モニター、蔦需の案内本、記念品もあり、賑わっていました。




次に当時の面影を残す「吉原神社」へ向かいます。
新吉原は一日千両の金が動く幕府公認の歓楽街として賑わい、色恋・色欲・愛憎・悲喜な人間の生き様がそこにあった場所として、そのドラマ的な雰囲気と開放的な社交場としてかっては江戸文化の交流・発信の場でもありました。
廓の守護神として、大門の入口と廓の4隅に稲荷社がありましたが明治時代に入って、近くにある「吉原弁財天」と合祀し、現在の吉原神社になりました。
大河ドラマを見た参拝者から「2体の神狐さんはどこ?」との問い合わせが増えたことから、大河ドラマ「べらぼう」の撮影用に見栄えが良い白色のやや大きめの2体の狐像が入り口付近に置かれました。これは撮影を聞きつけた地元の有志が寄贈したもので、女優「綾瀬はるか」さんが寄り添っていたものす。元々九郎助稲荷社にあった本物の2匹の神狐さんは色黒の小柄で神社の少し奥まったところに鎮座していました。
従って、今は入口付近にある新しい見栄えがする2体の神狐さんと社殿の奥に従来から居るやや小柄な2体の神狐さんと合わせて4体の神狐さんが祀られています。
神社の御利益は、開運招福・五穀豊穣・家内安全・財運向上・技芸上達・縁結び等
現在も女性たちに人気のパワースポットになっています。







傍に「吉原弁財天」があります。
元は吉原遊郭の守護神として信仰を集めた弁財天を祀る場所でした。境内には関東大震災の犠牲者をともらう「吉原観音」や遊郭の歴史を示す碑が残されていおり、開運・商売繁盛・芸能上達のご利益があるとされ、「浅草七福神」の一つです。関東大震災の際吉原の遊女や地元の人が弁天池にとびこんで圧死・溺死したり、炎で焼死したなど500体もの犠牲者が出たといわれており、展示パネルがあります。惨状を哀れんだ地元の有志がご遺体の多くを三ノ輪の「浄閑寺」に葬ったと記録されています。








そして「酉の市」で有名な「鷲神社」に向かいました。
日本武尊が東征の帰途、天之日鷲命の祠に熊手を掛けて戦勝を祝ったとされ、この日が11月の酉の日だったことから、以来11月の酉の日を祭礼としました。
ここは新吉原の裏手にあり、11月の酉の日だけは掘割の跳ね橋を下して、一般の通行を許したそうです。境内や田んぼにの畦道に並んで露店では商売繁盛の熊手などの縁起物が売られました。下見の時は酉の市の日で参拝者でごった返し、大きな熊手を抱えている人を沢山見かけました。外国の方もお土産にするのか熊手を抱えていました。













ここから20分程歩くと「浄閑寺」に着きます。リーダーの時間管理の不手際で閉門時間に間に合わず、境内を拝観することが出来ませんでした。申し訳ありません。
下見した時の写真をご覧ください。浄閑寺は別名「投げ込み寺」と言われ、吉原弁財天でも説明しましたが、地震や火災で引き取り手のない遊女の遺体が投げ込まれる様に埋葬されたことからこう呼ばれています。裏手には「新吉原総霊塔」があり、多くの無縁仏となった遺骨が埋葬されています。川柳には「生まれて苦界、死して浄閑寺」と。 また「永井荷風」の「筆塚」と「文学碑」が建てられて、荷風の歯2本と愛用した小筆が収めれれています。荷風は良く浄閑寺に通い、遊女の霊を鎮魂したそうです。






これで今回の「蔦重の故郷、新吉原に行ってみよう!」が終了しました。
会長から今年1年の活動参加へのお礼と来年もまた参加して良かった、の例会を実施しますので多くの方のご参加を期待しています、との挨拶があり解散しました。
懇親会参加者は近くの三ノ輪商店街の中華店で1年間の思い出に花を咲かせました。




















今年1年皆様と大変楽しい「歩こう会」が出来ました。健康の第一歩は体力の維持・増強ですね。来年も楽しい企画を考えています、皆様と元気に歩きましょう!
来年は、2月21日(土)「世田谷の歴史散策とサザエさんに出会う」でスタートします。参加申し込みは2月13日までに入力をお願いいたします。
参加申し込み クリックしてください
参 加 記:有田知義
写真提供:柿本政昭
北村卓士
迎居健一
辻井 勝
伊東哲也
有田知義

