(私とシャープ)私がシャープに入社した場所
投稿者:3256 柿本 政昭
私が、学校を卒業して社会人となったのは「早川電機工業株式会社 無線事業部 第1生産部 第6課」(当時の社名・所属名)という職場でした。
田舎での学生時代、少ない小遣いをやりくりしながらラジオを組み立て、自分が組み立てたラジオで東京放送(今のTBS)の声が聞こえてきたときの感動を忘れることが出来ず、仕事はテレビの製造にかかわることという希望をかなえてくれた職場でした。
当時の初任給は8000円台で、17インチカラーテレビは約70万円もする高額商品であり、高級乗用車とほぼ同じ金額で販売されていました。
当然、テレビと言えば白黒テレビが当たり前で、入社直後は白黒テレビの生産工程に配属となりました。
その頃のカラーの放送時間も夜のゴールデンタイムを中心にして4~5時間程度だった記憶がありますが、1964年(昭和39年)の東京オリンピックでカラーテレビの生産増強のため、カラーテレビの生産部に移りましたがオリンピックが終わるとまた白黒テレビに戻りました。
しばらくすると、カラーの放送時間も徐々に拡大されてゆき、国産のカラーブラウン管を使ったカラーテレビが発売され販売価格も徐々に安くなったことなどにより一般家庭でもカラーテレビが購入され始めました。
私は再びカラーテレビの生産部に移動となっていました。
白黒テレビ・カラーテレビの生産部を行ったり来たりしながら入社から3年間、西田辺の工場で生活をしていました。
宿舎は工場近くの「若葉寮」での生活です。
私が社会人となった最初の職場であり、成長させていただいた場所なので、格別に思い出が多くある場所です。
この度、大阪に旅行をする機会があったので、この懐かしい西田辺の地に行くことにした。
私の社会人のスタートとなったこの場所は今どのようになっているのかをこの目で確認するためです。
旧本社の建物は取り壊され、いったん更地になった後新たな建物を建てたとの事で、「ニトリ」の店舗となっています。当時の面影は全くない状態です。
私が入社直後3年間を過ごした工場の建物はそのまま残っていました。
しかし、建物は使われておらず、寂しさを感じる状態です。
若葉寮のあった場所にも行ってみましたが、すでに寮はなく、1階は店舗、2~3階は住宅という建物となっていました。
向かいの店舗の人に聞いてみましたが10年以上前から今の建物だとのことでした。
この場所にシャープの独身寮があったことは知らないということでした。
現在残っている西田辺の工場建物が、再び活気のある使われ方をされることを願いつつ、西田辺の場所を後にしました。












柿本様
西田辺ビル・若葉寮の写真、懐かしく拝見しました。有難うございます。田辺北側の跡地は「ニトリ」の店舗ですか。地下鉄西田辺駅を出たところの喫茶店「グランド」は気が付かなかったですか?周辺の状況等を次回にお会いした折、お聞かせください。
小生の実家は我孫子筋を天王寺方面に桃山学院のところの先で、歩いて通勤が出来るとの甘い考えで入社試験を受け、面接試験官は散歩で見かける五味常務でした。結果、西田辺への通勤はならず平野事業部第7技術部への配属でした。
有川さん
コメントをいただき有り難うございました。
西田辺交差点の角にあった「喫茶グランド」はありませんでした。
喫茶グランドの場所の写真は撮影してきませんでしたが、数枚の写真を追加を事務局に送り、修正追加掲載していただくようにお願いしました。
本社の裏にあった路地筋には社員の皆さんがよく通った店などがありましたが、ほとんど残っておらず、更地や駐車場が多くみられました。私は、新入社員で給料が低く外部の店に行くほどのゆとりがありませんでしたので、あまりなじみはありませんでしたが現在営業している飲食店も新しい店がほとんどであるように感じました。
3256 柿本政昭
喫茶店の「グランド」は、昭和55年の1月から数か月毎日、通ってました。当時、私は、資格試験の受験のため、午後5時25分の退社時刻と同時に、その喫茶店で、30分ほど、毎日、勉強していました。そのおかげで、その資格に合格できました。その意味で、「グランド」は、私にとり、とても思い深い喫茶店です。そこのお兄さんが、私に、「毎日、来られますね」と言われました。当時、私は、35歳でした。今の「グランド」は、分かりません。