(文章作成)古澤律夫
(写真提供)北村卓士
第261回健康歩こう会6月例会「関宿の城下町を探訪」の実施報告
6月例会は千葉県野田市の「関宿の城下町」を巡りました。(コロナ禍の影響と天候不順で一昨年3月と7月、今年の3月と計3度に亘って実施予定していたコースでした)。漸く今月例会を実施する事が叶いました。今回コースの見どころは最初に関宿城博物館の見学でした。江戸幕府関宿藩の城下町や利根川運河に囲まれた水と緑の豊かな街の姿や歴史を展示コーナで学習出来ました。次には太平洋戦争終結時の内閣総理大臣鈴木貫太郎記念館を見学しました。縷々説明を聴きながら激動の大変な戦争時代を再認識させられてその往時を偲びました。関宿の城下町は広大で歴史とロマンを彷彿させる新しい発見が有って皆さんと楽しく歩きました。(約7Km)
関宿城博物館天守閣を背後に 集合写真
■ 開催日時:2022年6月18日(土) 11時 50分 集合
6/18(土)東武スカイツリーライン「東武動物公園」駅改札口に、12名が集合しました。天候は曇り、涼しげで歩こう会日和りでした。柿本会長より挨拶と、新会員伊東哲也さんのご紹介があり、続いて古澤幹事から関宿コースの案内があり、出発しました。
➀ 野田市と関宿町は、平成15年6月6日に合併し、新しい野田市が誕生しました。千葉県の北西部にあたり、関東平野のほぼ中央に位置しており、市の東を利根川、西を江戸川、南を利根運河が流れる水と緑に恵まれた地域です。当地域は古くからこの水の恵みを活用し、北部は大都市江戸への玄関口であり、重要な川の関所が設けられた関宿藩の城下町として栄えました。総人口約15万人です。
➁ 関宿町は千葉県最北端の東葛地域、東葛飾郡に属していた街。現在は編入合併により野田市に成っている。総人口は約3万人の町です。
- 会長の挨拶
- 新入会員 伊東さん
- コースご案内
東武動物公園駅前からバスに乗車、約30分後に現地の関宿に入りました。遠方にかっての関宿城を模した天守閣が見えてきて約10分くらい歩いて博物館に到着しました。尾崎学芸課長が出迎えてくれました。
- 天守閣と我等精鋭部隊
- 関宿城博物館入口門
- 尾崎課長お出迎え
冒頭、学芸課長尾崎さんから10分間程度関宿城博物館の成り立ち、展示テーマについて、更に利根川と江戸川の分岐点、関宿藩と関宿などの紹介が有りました。
【千葉県立関宿城博物館】
利根川と江戸川とに挟まれた野田市関宿三軒家のスーパー堤防上に建設、川の歴史と文化を探る博物館として平成7年に開館しました。建物はかっての関宿城を模した天守閣を再現、4階の展望室からは利根川の流れや関東一円の山並みを一望する事が出来ます。。
- 尾崎課長の説明
- 尾崎課長の説明
- 同じく 説明
約30分ぐらい展示室を見学、利根川、江戸川の歴史、特には利根川の東遷(とうせん)事業について約10分程度のビデオ解説が有りました。
➀ 江戸時代初期、特に洪水対策などの目的で利根川本流の開削工事を行い、東京湾に注いでいた本流を途中で閉め切ったり、新たな川を作ったりしながら少しずつ東へ流れを変え、承応3年(1654)に本流を銚子河口から太平洋に流す工事が完了しました。
➁ 江戸時代の利根川水運の主役は高瀬船と呼ばれる大型の川船でした。長さは最大で30mくらいで、コメ俵約1300俵を運べました。利根川、江戸川を上り下りし、荷物などを運んでいました。水運が盛んに成ると流域のいろいろな場所に産業が興りました。
➂ 関宿城は、利根川と江戸川の分岐点にあり、水運の要塞です。江戸幕府にとって重要拠点でしたので徳川家から信頼の厚い大名がこの地を治めました。天正18年(1590年)徳川家康の異父弟・松平康元が2万石で入り、関宿藩が立藩しました。関宿藩主23代のうち久世氏は10代に亘って関宿を治めて、このうち4人は江戸幕府の老中を努めました。
- 展示コーナー
- 活躍当時の高瀬船
- 展示コーナー
最上階の4階の展望室からは、関東平野を一望でき、利根川・江戸川の流れの様子を観れました。本日は曇り空の為筑波山・日光連山・富士山など関東平野を取り巻く山並みを遠望する事は出来ませんでした。
博物館を後にして、近くで天守閣を背景に集合写真を撮りました。次に中之島公園方面の関宿水閘門(すいこうもん)を訪ねました。
- 天守閣前の集合写真
- 中之島公園入口橋
【関宿水閘門(すいこうもん)】
昭和2年、江戸川の流頭部に建設された水門と閘門を併設した施設。それまで、江戸川の水量調節を担っていた「棒出し」は水閘門建設により役目を終わり撤去されました。水門は8門のゲートをディーゼルエンジンで昇降させ、閘門は船舶の航行時に上下の門を開閉しし水量調節しています。
これは水門を境に利根川と江戸川の水位が違う為、そのままでは船が航行できないからです。当水閘門は材質的にもそれまで主体であった煉瓦造りからコンクリートへ移行する時期の貴重な近代文化遺産として注目出来ます。
水閘門、中之島公園を折り返して、江戸川土手を歩きながら関宿城本丸跡の見学に向かいました。
- 中之島公園入口橋
- 関宿水閘門
- 江戸川河岸
【関宿城本丸跡】
県立関宿城博物館から南に約500mの、江戸川沿いの木々の茂る一面に関宿城本丸跡があり、そこに関宿城を示す石碑が建っています。現在、城跡は河川改修のため3分の2程度が江戸川土手に埋まってしまいましたが、三の丸・内堀などが江戸川土手の上からうかがい知ることが出来ます。
■ 関宿城は今から500年以上前(1457年)に梁田成助(やなだしげすけ、足利の有力家臣)が建てたと言われています。天守閣は古い記録によると、寛文11年(1671年)に江戸城富士見櫓の形をまねて立て直され、お三階櫓と呼ばれました。関宿城は佐倉城、忍城などと共に江戸城を守る重要な城の一つでした。
- 関宿城本丸跡
- 案内 看板
- 戦国・下剋上時代説明
- 同じく歴史の説明
次は愈々見どころの「鈴木貫太郎記念館」へ向かいました。途中で「筋違いの十字路」の看板があり紹介しました。筋違い状に交わる変則の十字路交差点でした。
- 遠くに天守閣が…聳えて
- 筋違いの十字路の案内
- 次は鈴木貫太郎記念館へ
約束時間のジャスト15時に到着、津久井副館長が待ってられました。
【鈴木貫太郎記念館】
太平洋戦争終結時の内閣総理大臣であった、鈴木貫太郎氏の記念館。館内には、鈴木貫太郎氏が愛用していた海軍時代や侍従長時代の礼服、また当時を偲ばせる遺品が数多く展示されています。白川一郎画伯が描いた「最後の御前会議」の油絵はあまりにも有名だが、彼の政治家としての功績を、絵画鑑賞とともに知る事が出来ます。
冒頭記念館の外の「為万世開太平」塔碑の紹介が有りました。この言葉は万世の為に太平を開くと読み、終戦の詔書でも使用された文言です。意味は後々の世の為に平和をつくると言うもので、平和を望んだ鈴木貫太郎翁は、戦後にこの言葉をよく揮毫したと伝わります。
- 鈴木貫太郎記念館
- 「為萬世開太平」塔碑
- 津久井副館長
■ 鈴木貫太郎翁(1867~1948)第42代内閣総理大臣、救国の宰相
太平洋戦争終結時の内閣総理大臣であった「鈴木貫太郎」は大阪堺市(当時は関宿藩の飛び地)で生まれましたが、3歳の時に関宿に移りました。二・二六事件、終戦時の宮城事件と二度の暗殺未遂事件に遭遇します。
記念館では20分ほどビデオ鑑賞しました。特に奥様のタカ夫人から見た二・二六事件の様子、奇蹟的に命を取り留めた事など、「不死身の男」ぶりが戦争終結という偉業を成し遂げたのかも知れないと。副館長からは、戦時土壇場の中、終戦派と抗戦派が3対3の真っ二つに分かれて結論は出ない。総理の鈴木は最後の手段として天皇の「聖慮」を仰ぐ異例の策で終戦の扉を開く、ポツダム宣言を受諾するに至る、お話が有りました。
- 鈴木貫太郎記念館
- 周辺のご案内
- ビデオ鑑賞
- 津久井副館長 熱心!
※ 現在記念館は、先(2019年)の台風被害と耐震強度の問題から臨時休館として再建に取り組んでられます。今回、特別に見学をお願いした事情柄、生憎館内の愛用の品々などの展示品は殆んど見れませんでした。
記念館を終え、帰りのバス時間も考えて、近くの「実相寺」を訪ねました。
【実相寺(じっそうじ)】
日英上人が応永16年(1409)に創建した日蓮宗の寺院で、境内には第二次大戦終了時の内閣総理大臣、鈴木貫太郎(1867~1948)の墓が在ります。また、関宿城内の建物の一部が移築され、客殿として今も使われています。
- 実相寺 境内口
- 鈴木貫太郎翁のお墓
- 実相寺 本殿
- 実相寺 客殿
鈴木貫太郎翁のお墓詣りを済ませて、今回の例会は終了です。残り2コース「光岳寺」「宗英寺」」の寺社詣りは割愛としました。
帰りは定刻にバスに乗車して東武動物公園駅へ向かいました。到着後、駅前に集合して、柿本会長から次月7月例会「渋沢栄一part3、ゆかりの地を訪ねる」の案内が有り、解散としました。
- 会長の挨拶
- 皆さんお疲れさまでした
ウォーキングの途中ではお疲れの方も見られましたが、涼しげな1日で無事に例会を終える事が出来ました。
■ ウォーキング 風景
以上














































