第264回 「渋沢栄一の足跡を訪ねる Part3」 実施報告

天候不順や夏の計画休会で例会をしばらく実施できませんでしたが、久しぶりの例会実施です。今回は渋沢栄一にゆかりのあるコースを歩く Part3 です。渋沢栄一ゆかりの地ウォーキング Part1 は2021年12月 第256回例会で田園調布の高級住宅街を歩きました。この住宅街は、渋沢栄一が設立した会社が理想的な住宅街を開発することを目指した住宅街です。 ゆかりの地ウォーキング Part2 は2022年4月 第259回例会で深谷市血洗島の渋沢栄一の生家や、いとこの尾高惇忠の家などを訪ねました。今回は渋沢栄一ゆかりの地の Part3 です。渋沢栄一が立ち上げた会社が約500、福祉教育関係の施設が約600もあり、これらをすべて訪ねることはできません。視点を変えて、栄一が住まいした住居跡を訪ねることにしました。このコースは、本年7月に実施することで計画しましたが、天候不順のため、中止されたコースの再挑戦です。

開催日  2022年10月15日(土)  参加者 18名  天候  曇り
集合場所のJR京浜東北線 王子駅には健康歩こう会を愛する会員、お試し参加の会員合計18名が集まりました。大勢の人が行き交いする改札口前ではゆっくりお話しできないので、まずは飛鳥山公園に移動してお話しでできる環境を求めました。

ここ飛鳥山公園は、約300年前、8代将軍吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしました。江戸の新しいお花見の名所として誕生した飛鳥山は、当時、桜の名所地では禁止されていた「酒宴」や「仮装」が容認されていたため、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しみました。向島と飛鳥山に対して許可されました。また、飛鳥山は、1873年(明治6年)、上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定され、令和の現在も「憩いと出会い」の場として親しまれています。このような飛鳥山公園に平成21年から、自走式モノレール「アスカルゴ」が運行されています。一部の会員はアスカルゴを利用していました。

●旧渋沢邸「中の家(なかんち)」←Part2で行った生誕の地
栄一が生まれてから23歳ごろまで家業を手伝いながら居住していました。その後一橋慶喜に仕えていましたが、万国博覧会使節一橋昭武の随員としてフランスにわたる。帰国後静岡藩に仕えるなどをしていましたが、この間、妻ちよは中の家にて家業を手伝いながら生活していましおた。深谷市にある渋沢栄一の生家は、Part2ですでに訪れていますので、ここでは以前の例会を思い出しながらの説明のみです。
主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって1895年(明治28年)上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所です。渋沢家の住宅として使われていましたが、1985年(昭和60年)より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され多くの外国人留学生が学びました。2020年(平成12年)の同法人解散に伴い深谷市に帰属しました。県指定旧跡「渋沢栄一生地」、市指定史跡となっています。

以下は、本日訪れた場所です。

●渋沢栄一史料館
まずは、渋沢栄一史料館に入館します。近代日本を創ったリーダー・渋沢栄一の志を伝え続ける博物館. 渋沢史料館は、日本の近代経済社会の基礎を築き、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面においても指導的役割を果たした渋沢栄一(1840年(天保11年)-  1931年(昭和6年))の91歳までの生涯と、多方面にわたる事業や人々との交流に関する数多くの資料を収蔵、展示しています。 Part2 で深谷市にある渋沢栄一の資料館に立ち寄りましたが、両博物館の展示の違いなどに触れることができ、渋沢栄一の生涯を振り返ることができました。

渋沢栄一史料館の係の人に「入館券の渋沢の写真が4種類ありますよ」と教えられ、みんなの持っている入館券を調べると4種類の違った写真が使われていました。集めて写真の記録に残しました。

  • 飛鳥山渋沢邸
    渋沢財閥を率いた大実業家の渋沢栄一は、1897年(明治12年)飛鳥山に別荘を構え、1901年(明治34年)栄一61歳からは飛鳥山が本邸となりました。1931年(昭和6年)栄一が91歳で永眠するまでここに生活しておりました。第二次世界大戦の戦禍でほとんどの建物は失われましたが、接客用茶室だった晩香廬と、書庫だった青淵文庫が残り、共に国指定重要文化財となっています。
    渋沢栄一は、設立に尽力した王子製紙(設立当時は抄紙会社)の工場を眼下に見守ることができる飛鳥山に、邸を構えました。1879年(明治12年)からは内外の賓客を招く公の場として、その後1901年(明治34年)から亡くなる1931年(昭和6年)までは家族と過ごす日常の生活の場としても使用し、「曖依村荘(あいいそんそう)」とも呼ばれ、栄一もこの地をこよなく愛していました。
    残念ながら、戦災の大火により本邸は焼けてしまいましたが、晩香蘆と青淵文庫は残りました。
    〇晩香廬(ばんこうろ)は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室です。1917年(大正6年)の竣工で、丈夫な栗材を用いて丹念に作られ、暖炉・薪入れ・火鉢などの調度品、机・椅子などの家具にも、設計者の細やかな心遣いが見られます。晩香廬は内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用されました。
    〇青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社が寄贈した煉瓦及び鉄筋コンクリート造の建物です。1925年(大正14年)の竣工で、栄一の書庫として、また接客の場としても使用されました。
    渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで柏の葉をデザインしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館です。
    当初収蔵されていた「論語」をはじめ多くの漢籍は、1963年(昭和38年)、渋沢家から東京都立日比谷図書館に寄贈され、現在は東京都立中央図書館に所蔵されています。

晩香蘆と青淵文庫はともに、国の重要文化財に指定されています。

  • 洋紙発祥の地    北区王子1丁目5-12
    1873年(明治6年)、渋沢栄一は王子に抄紙会社(のちの王子製紙)を設立。わが国の洋紙発祥の地は、東京府豊島郡王子村(現、東京都北区王子)です。王子製紙株式会社の社名の発祥の地でもあります。現在は、ショッピングセンターになっている場所が抄紙会社があった場所です。

ここで一行は地下鉄南北線、東西線を使い門前仲町まで移動します。

  • 深川福住町の住宅   江東区永代2丁目37番28号
    1896年(明治9年)栄一36歳 ~ 1888年(明治21年)栄一48歳 までの12年間ここに住まいをします。その後、住居は別邸として使用されていたが、澁澤倉庫をこの地に立ち上げました。この間息子の篤二も住んでいたことがあります。
    建物は1908年(明治38年)三田綱町(現在の港区三田)に移築されました。1991年(平成3年)に青森県六戸町に移り、2018年(平成30年)清水建設に部材として保管されています。2023年(令和5年)に江東区塩見(清水建設株式会社敷地内)に移築される予定です。
  • 澁澤倉庫発祥の地     江東区永代2丁目37番28号
    わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・ 保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ。日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、この信念のもと、1897年(明治30年)3月、私邸に澁澤倉庫を創業しました。
    渋澤榮一の生家は、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていました。この藍玉の商いをするときに使用した記章が(ちぎり・りうご)でした。
    1909年(明治42年)7月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めましたが、藍玉の頃からの記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれています。
  • 平和不動産株式会社 日証館  中央区日本橋兜町1-10
    1888年(明治21年)栄一48歳~ 1901年(明治34年)栄一61歳 の間居住。1888年(明治21年)には本邸を永代からこの地兜町に移した。日証館は、1928年(昭和3年)に渋沢栄一が創業者の一人である東京株式取引所によって、渋沢栄一の邸宅跡に建てられた。渋沢栄一の邸宅は、東京駅を設計した辰野金吾が手掛け、1888年(明治21年)に完成しました。ベネチアンゴシック様式の洋館が評判だったが関東大震災で焼失しました。●第一国立銀行跡・銀行発祥の地(現みずほ銀行兜町支店)中央区日本橋兜町4-31873年(明治6年)国立銀行条例に基づいて設立された国立銀行で、日本最初の近代的銀行。当初別々に銀行設立を計画していた三井、小野両組が、井上馨、渋沢栄一の勧めで、共同出資に踏み切って設立したものです。設立時の資本金は250万円。設立とともに渋沢は総監役として同行の経営に参画、1875年(明治8年)小野組破綻後の経営危機にあたり頭取に就任した。これ以後渋沢の指導のもとに同行は、国立銀行の指導的地位にたつとともに、金融界近代化の先駆けとなり、王子製紙会社など近代工業の育成にも力を尽くした。また1878年(明治11年)には朝鮮にも進出、1909年(明治42年)に韓国銀行が設立されるまで同国の中央銀行的役割を果たしました。ちなみに、国立という名前ですが、これは民間の銀行です。国立銀行条例に基づいて設立されていたので最初は全ての銀行が国立銀行という呼び名だったようです。
    国立銀行の営業期間満了とともに1896年(明治29年)、株式会社第一銀行と改組、普通銀行に転換し、五大銀行の一角を占めた。第二次世界大戦時の1943年(昭和18年)、当時の国策に即して三井銀行と合併して帝国銀行となり、1944年(昭和19年)には十五銀行を合併、日本最大の普通銀行となった。戦後、金融機関の再建整備に際し、1948年(昭和23)に旧第一系が第一銀行、旧三井・十五系が帝国銀行(のち三井銀行と改称)として新発足しました。第一銀行は1964年に朝日銀行を合併し、さらに1971年(昭和46年)には日本勧業銀行と合併して、第一勧業銀行となった。第一勧業銀行は2002年(平成14年)4月、富士銀行、日本興業銀行と分割および合併し、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行に統合・再編されました。

  • 東京証券取引所   千代田区日本橋兜町2番1号
    日本の証券・金融市場の象徴的存在。株式会社日本取引所グループの子会社で、日本最大の証券取引所である。金融商品取引法上の金融商品取引所。略称は「東証」。2階の「東証Arrows」見学回廊からは株価が回りながら電光表示されるガラス張りの「マーケットセンター」などの各施設が一望できます。ニュースなどでよく出てきますので思い浮かべる人も多いことと思います。●日本郵便発祥の地      現日本橋郵便局
    日本の近代郵便制度は、1871年(明治4年)3月1日、東京-京都-大阪の3都市とその間を結ぶ東海道筋の宿駅(62カ所の郵便取扱所)で新式郵便業務が開始されました。そしてこの時、江戸橋南詰の当該地に新設されたのが、「駅逓司」(駅逓寮・駅逓局と改称、逓信省へと移管・移転)と取扱機関「東京郵便役所」です。郵便切手の発行1871年(明治4年)・全国均一料金制1873年(明治6年)など、郵便物を公私の別なく迅速・低料金で届ける新式郵便制度はこうして誕生しました。現在、日本橋郵便局前には、日本の“郵便事始めの地”を象徴するように、前島密の胸像をいただく石碑が建立されています。

今月は、渋沢栄一が住まいした場所にスポットをあてて訪ねてみました。今と違い交通が発達していなかったので、住まいした場所と仕事の場所は近い場所でした。つまり住まいした場所を訪ねることは活躍した場所を訪ねることにもなります。

これからもその時代背景を考えながらのウォーキングコースが設定できればと考えております。

文章作成  柿本政昭
写真提供  北村卓士

11月例会は、京浜急行の「お得な切符」を利用して三崎のマグロ丼の昼食と、城ヶ島を歩くコースです。多くの会員の参加をお待ちしています。

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