第282回7月例会「古代の政庁跡、国分寺跡を歩こう」実施報告

NHKの看板番組の大河ドラマ「光る君へ」の時代より約250年さかのぼる奈良時代に全国に作られた「国分寺・国分尼寺跡」並びに「政庁跡」を訪ねるウォーキングです。熱中症危険情報が出る猛暑になりましたが、18名の元気な仲間が集合しました。

■ 実施日       2024年 7月20日(土)
■ 集合場所  JR総武線 「市川駅」北口
■ 参加者数  18名
■ 天候    熱中症危険情報が出る猛暑日・晴れ

梅雨明けのアナウンスが2日前にありましたが 熱中症の危険情報が出されるこの日、朝から数名の人が「今日はやめる」との連絡がありました。それでも18名の元気なメンバーが集合しました。健康歩こう会と遠遊会合同で、東京支部発足30周年記念品として熱中症対策グッズの「涼感タオル」が参加者に配られました。早速、駅ビルのショッピングセンターにある手洗い所で濡らして使っている会員も多く見受けられました。まさにグッドタイミングの品です。

奈良平城京に都がある時代、皇族間の争いが絶えなかったこと。農産物の不作による飢饉、はやり病(天然痘)などの政情不安を一掃して平和な世の中を作るため、聖武天皇は、仏教の力による治世を目指しました。具体的には全国に「国分寺・国分尼寺」を建立し、奈良の都には廬舎那仏(大仏)を建立しました。現在の東京都西部、国分寺市に国府・国分寺があったことをみんな知っていますが、下総(しもうさ)の国にも国府・国分寺が作られました。それが、現在の市川市にある下総総社跡・国分寺跡です。このコースは、市川市に在住の歩こう会メンバーの 辻井勝さんのアドバイスや事前準備などのご協力により実施することができました。

市川駅に集合した参加メンバーは、路線バスの利用により、「国分(こくぶん)」バス停まで移動します。一般の利用者に迷惑がかからないよう、と早めに集まったメンバー(約半数)が先行するバスを利用して出発しました。国分バス停で合流したメンバーは、ここからスタートです。本日のコース、国分寺の成り立ちなどの説明の後早速出発です。


竺園寺(ちくおんじ) 
南北朝時代(1336(建武3年/延元元年)年から1392(明徳3年/元中9年))に創建。かつては北国分にありましたが、のちに竹園山法泉寺から喜州和尚を招いて現在の場所に移されました。この時もたらされた十一面観世音菩薩坐像が本尊です。境内には四方に枝を巡らせた「臥龍の松」と細やかにしつらえられた日本庭園があり見ごたえがあるお寺です。参加者より臥龍の松はいつごろからあるのかとの質問がありました。樹齢は約600年とのことです。


下総国分尼寺跡 
下総国分寺跡(国分僧寺跡)より北西500メートルの場所にあり、現在は公園として保存されています。国分尼寺は、国分僧寺と同じように、聖武(しょうむ)天皇が天平13年(741年)に発せられた「国分寺建立の詔」によって、「法華滅罪之寺」(尼寺の正式名称)として各国々に建立されたものですが、建立の実年代は現在のところはっきりしません。

宝珠院 
境内は国分寺の寺領でした。本尊は享保年間(1716~1736)の作と伝わる薬師如来です。平成16年に市川在住の仏像彫刻家・堂本寛恵さんが月光・日光菩薩を制作したことで話題になりました。境内に大きなヤカンがあるのは、ヤカンと夜間をかけて、夜間でもお参りしてご利益がありますようにということで置いてあるとのことです。先々代の住職がダジャレ好きな方だったということです。ちなみにやかんは閉店したラーメン屋から無料で譲ってもらったものを置いているそうです。また、境内には、大賀蓮が栽培されていますが、残念ながら花は一輪も咲いていませんでした。


下総国分寺 
天平13年(741)聖武(しょうむ)天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、「金光明四天王護国之寺」として建立されました。下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺の跡で、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、金堂・塔・講堂が建てられていました。下総国分寺の後に現在の「下総国分寺」が建立されています。門前で本日の集合写真の撮影です。


弘法寺(ぐほうじ) 
 奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされます。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したとのことです。その後、天台宗に改宗しました。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗しました。常忍の子で日頂を初代の貫主としました。大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受けます。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展しました。徳川家康より朱印地30石を与えられました。江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈ります。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されています。戊辰戦争の際は、一時、東北方面へ逃れる幕府軍が逗留しました。手児奈霊堂付近にあった末寺の大林院では土方歳三も軍議に加わっています。幕府軍が去ったあと弘法寺に官軍が陣を構えて市川・船橋戦争が始まります。弘法寺は明治時代、火災のため諸堂は焼失し、その後、再建され現在に至ります。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑があります。境内には弘法寺古墳(前方後円墳)、真間山古墳(円墳;未調査)があります。


下総総社(しもうさそうじゃあと) 
大化の改新の詔によって、日本各地は60余か国に分けて整備され、それぞれの国には「国府」と呼ばれる地方政治の中心地が置かれました。
「国府」の中心には「国庁(または国衙=こくが)」と呼ばれる場所があり、「国庁(国衙)」では国司が政(まつりごと)を行いました。「国庁(国衙)」を中心にその周辺にはさまざまな役所や人が住み広がり、その範囲を「国府」といいます。国司が常駐して政務その他を行う二町四方の国庁(国衙)があった。中央権力としての平城京の分身としてその地方を統治したのが国府です。国庁(国衙)の位置については平城京・平安京のように国府の北側中央に位置するのが通常ですが実際には地形などにより一定していなかったようです。国を治める国守の任務の中に、国内にある神社を毎年巡拝して奉幣祭祀するというものがありました。これはなかなか大変な仕事のため、国府の近くに諸社のご神体を合祀し、巡拝を簡略化しました。これが「総社または六所神社」であるとされています。

ここで、休憩もかねてコースリーダーより説明タイムがとられた。今日回っている史跡は奈良時代に作られたものですが、
●今放映されている大河ドラマの平安時代も世の中の仕組みはあまり変わっていなかったこと。
●国府、総社と呼ばれるのは、国から派遣されて国の行政をつかさどる仕組みだった。五畿七道とよばれる地方分割制度が定められていたこと。
●最も大切な地方は、大宰府のある北九州であったこと
●当時の地方との連絡は、行き来するしかなかったので、道路が整備され、「駅馬(えきば)」の制が設けられ、約4里ごとに馬と人夫を備える施設も整備されていたこと
などの説明がありました。

このような説明をしていたら、岡山県出身の北村さんより質問がありました。「岡山県に総社市があるがそこも昔の総社に関連があるのですか?」その場ですぐに答えは出ませんでしたが、後日調べると、岡山県総社市にも「吉備国府」がありました。吉備国府が総社と呼ばれたのは下総と同じ理由ですがこの総社の名前が残り、幾多の市町村合併などを経て「現在の総社市」という名前になっていることがわかりました。

総寧寺(そうねいじ)
總寧寺は1383(永徳三)年、近江国観音寺の城主佐々木氏頼によって、滋賀県坂田郡近江町に建立されました。戦国期の争乱によって焼失した總寧寺は、小田原城主北条氏政から寺領二十石を受領し、1575(天正三)年に千葉県関宿へと移されました。その後関宿の地がたびたび水害を被ったため、1663(寛文三)年に徳川四代将軍家綱に願い出て現在の国府台(こうのだい)へと移転しました。その折、幕府から寺領として百二十八石五斗余り、山林六万七千余坪を与えられました。江戸時代には栃木県大中寺、埼玉県龍穏寺とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹(かんさんさつ)」に任ぜられ、末寺3000余寺を擁していたといいます。また、總寧寺歴代住職には十万石の格式を持つ全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、すべての人事をつかさどる僧職・大僧録に任じ、江戸小石川に邸を与えられました。幕末の1850(嘉永三)年頃、戊辰戦争の舞台となり相当な被害を受けた国府台一帯。總寧寺も戦乱の火災によって伽藍のほとんどを失いました。後に陸軍用地となり、1958(昭和33)年に現在の里見公園となりました。境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔(市文化財)である二基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣き石など、歴史を伝えるさまざまな遺産が現存しています。

里見公園
里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。室町時代より里見軍と北条軍の幾多の戦がこの地で行われました。江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。
昭和33年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するとともに、人々の憩いの場として里見公園を開設しました。平成15年度市制施行70周年の記念事業として、里見公園噴水広場にバラを植栽しました。また、この一角に、平成16年11月、ドイツ国ローゼンハイムとパートナーシティ締結記念に、同市からつるバラ「マリア・リサ」(一季咲き)が寄贈され、国際親善を深めてきました。


里見公園内の見どころです。
〇 紫烟草舎 (しえんそうしゃ)
 「からたちの花」、「砂山」などの詩で親しまれている詩人北原白秋(明治18年(1885)~昭和17年(1942))が大正5年(1916)の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで優れた作品の創作を続け、白秋自身で「紫烟草舎」と名付けました。この地に復元されたのは、白秋が小岩に移り住む前、真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも江戸川越しにこの台地を眺めたであろうこと、そして葛飾の野をこよなく愛していたことによります。

 里見群亡の碑
 永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は8千の軍勢を率いて国府台に陣を構え、北条氏康軍約2万を迎え撃ちました。7日の戦いは里見側に有利でしたが、8日北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退しました。この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討ち死にするもの約5千名と伝えられています。 里見軍死者の亡霊を弔うものなく、文政12年(1829)になり里見諸士軍亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられました。

〇 夜泣き石(よなきいし)
永禄7年(1564)の里見・北条の合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠く安房の国から国府台を訪ねてきました。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。以来この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。

里見公園から東京方面が見渡せる見晴らし台的な場所があり、天候が良ければ、東京スカイツリーはもちろん、東京タワーや富士山まできれいに見ることができます。しかし、今日は空気が曇っているので、スカイツリーが精いっぱいの状況です。ここで参加していた会員の平田さんからこの場所から以前に撮影した写真の披露があり、その写真にはくっきりと富士山まで写っていました。さすが、元写そう会のメンバーです。みんなは、美しく写っている富士山に魅了して、元気が出てきました。平田さんありがとうございました。

〇 明戸古墳石棺(あけどこふんせっかん)
 2つの石棺は公園の裏山にありますが、文明11年(1479)太田道灌がこの地に城を築いたときに土盛りが取り払われて露出したものと伝えられています。板のような縁泥岩製の組み合わせ式箱型石棺で蓋石は、見られません。古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)この地に勢力をふるっていた豪族の墓と推定されます。この地方に箱型石棺があるのは極めて珍しいといわれています。


 羅漢の井(らかんのい)
 公園の南斜面下にあり、里見一族が布陣の際の飲用水としていたと思われ、高台にあって一年中清水が湧いています。一説には弘法大師が発見し、里人たちに飲用水として勧めたとされています。国府台は高台であり、飲用水を得るためには深い井戸を張る必要がありますが、このような水源は貴重なものです。

市川関所跡  
房総と江戸をむすぶ佐倉道が江戸川を渡るこの「渡し」は、古くから交通の要衝でした。江戸時代には 元和2年(1616)に定船場となり、番所がおかれ、いわゆる「入り鉄砲に出女」という言葉があるように、江戸を往来する人や物資を厳しく監視しました。番所はのちに「関所」となりました。関所付近の街道筋は「御番所町」とよばれ、旅籠屋や掛茶屋が立ち並び、大名の参勤交代や成田詣での人々でにぎわいました。関所を通るには、名主の発行した手形または切手と呼ばれる通行証明書が必要で、特に鉄砲の持ち込みと女性の地方への旅は厳重に取り締まられました。そのため、千葉県側から嫁に来た場合は、里帰りや祝儀・葬儀、実家に帰る場合にも手形を必要とし、奉公人として雇われてきたときには年季が明けるまで帰ることはできませんでした。本来なら市川関所跡の看板のある場所まで行く予定でしたが、参加者の皆さんの疲れ具合いから、この説明は江戸川堤防の真間川の河口付近で実施しました。市川関所跡の写真を掲載します。


これで本日の見学は終了です。コースリーダーから、来月8月例会は休会にします。9月例会は、東京支部発足30周年記念例会として健康歩こう会が発足した際の第1回目のコースを歩くことにします。との説明があり本日の例会は終了です。(暑い中お疲れさまでした)この後、バスに乗ってJR市川駅に向かう人、京成国府台駅から八幡、船橋方面に向かう人、都内方面に向かう人などそれぞれのコースで帰宅されました。


参加していただいた皆さんにお渡しした資料に、クイズを掲載しています。答えを考えてみましたか? 答えを下記に示します。

クイズ  考えてみよう  (出題 ; 辻井勝さん)

Q1  千葉が「房総」と呼ばれるのはなぜか?
   答 安房の「房」 と 下総・上総 の「総」を合わせて 「房総」となります。

Q2  古代の「国府」の数と現在の「都道府県」数はどちらが多いか?
   答 古代の国府は約60、現在の都道府県は47 国府の方が多くありました。

Q3  日本における仏教の原点である「天台宗」と「真言宗」について

    それぞれ誰が開宗したか  また開宗した場所は?

    開宗した年開宗したのは誰開宗した場所
天台宗 805年最澄  滋賀県 比叡山延暦寺
真言宗 806年 空海(弘法大師) 和歌山県 高野山 金剛峯寺

文章作成  柿本政昭
写真撮影  北村卓士
      柿本政昭

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください