第284回                   「朝比奈切通しから鎌倉古刹巡り」

開 催 日:2024.10.19
   天 気 :晴れ/曇り28℃
参 加 者: 19名 

爽やかな秋晴れの金沢八景駅に19名(途中で1名参加)の会員が集まりました。早速バスに乗って朝比奈切通し最寄りのバス停「朝比奈」に向かいました。
朝比奈切通し&鎌倉古刹地図
お手元資料

朝比奈バス停傍の広場で開会式。
会長から挨拶及び連絡事項のお話があり、続いて今回のコースリーダー有田幹事から今日のコースの説明が終わると、早速出発しました。

鎌倉幕府は周囲を山と海に囲まれて防衛上大変有利なこの地を選んで幕府の拠点を構えました。時世が安定すると生活するに必要な物資の流通を容易にする為に必要な通路「切通し」を多く開削しました。今でも「鎌倉七口」と呼ばれる主要な切通しが残っていますが、その中でも昔の面影を一番残していると言われるのが今回踏破する「朝比奈切通し」です。国の指定遺跡にもなっています。

鎌倉幕府の御家人和田義盛の三男・朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたと伝わっています。(昔のことで、白髪三千丈や豊臣秀吉一夜城と同じで超誇張した表現でしょうが?驚きです。)
切通しには昔からの遺構が沢山残っています。峠の頂上部には茶店の杭跡や側面には遺骨を納めたとみられる「やぐら」、石仏・慰霊碑などの遺構が当時を偲ばせます。

切通しの峠を過ぎると道は段差もあり、水も流れていて足元を気にしての歩行となりました。当時の歩行者・旅人の苦難はいかばかりかと強く感じました。
切通し出口付近に小さな滝があり「三郎滝」と名付けて功績を伝えています。

☆ここでちょっとブレイクタイム(1)
参加者から、さっきの道路標識に「朝夷奈(あさいな)切通し」とあったが、「朝比奈(あさひな)切通し」もあり、どっちが正しいの?と質問がありました。
ごもっとも!

正解は、どちらも正しいです。
・「朝夷奈切通し」は、鎌倉幕府の有力な御家人和田義盛の3男“朝夷奈三郎義秀”が一晩で開削したという伝説から、そう呼ばれており、貞享2年(1685)刊行の地誌「新編鎌倉志」には「朝夷奈切通」と表記されています。
・時代が進んで、昭和11年(1936)、旧峠村は横浜市磯子区に編入の際、古くから言い慣らされた「朝比奈」を町名としました。(その後磯子区は分区し、金沢区になりました。)
・それ以降一般的に町名も、バス停も「朝比奈」が使われる様になり、この切通しも「朝比奈切通し」の名が使われ、むしろ多く使われる様になった様です。
☆因みに和田義盛の3男なのになぜ「朝夷奈三郎義秀」なのか疑問になりました。
 調べたら、なんと木曽義仲の妾だった巴御前と和田義盛の間の子が三郎義秀で(諸説ありますが)、安房国朝夷郡で育ち、成長したからだと言われています。
ホントかなあ!
やぁ!、歴史っておもしろいですね~!

この切通しは、昭和31年に「鎌倉霊園経由鎌倉駅行バス」が出来るまで一般道として運用されていました。つい最近まで日常生活に利用されてのには驚きでした。

やっと切通しを過ぎると出口脇に「梶原太刀洗水」があります。梶原景時が有力な御家人上総広常を討った後、血の付いた刀を洗った湧水です。ただ、湧水と言われる水道菅の周りは草だらけで鎌倉市にはもっと整備をしてほしいと地元の人が怒ってましたが!

次の光蝕寺へ向かいましたが、途中に「大江広元」の住居跡がありました。
広元は、源頼朝の側近として大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府初代の別当
務め、幕府創設に貢献しました。今で言う官房長官の様な役だったんでしょうか?

皆さんもご存じでしょうか?「承久の乱」に際し、尼将軍と言われた「北条政子」の歴史に残る有名な演説を。
朝廷側からの圧力にうろたえる御家人を前に、政子の一生一代の名演説とされています
北条政子一生一代の演説
この有名な演説内容の草案に大江広元も加わっていたと言われています。

さて、そんな思いにふけっていますと「光蝕寺(こうそくじ)」に到着しました。
このお寺は、弘安元年(1278)に時宗の開祖「一遍上人」によって創建され、
およそ700年以上にわたり念仏の道場となっています。
本堂にある本尊阿弥陀如来三尊は関東管領「足利持氏」が奉納したものです。
また如来像は「運慶」、左の観音像は「快慶」、右の勢至像は「湛慶」の作と言われ国重要文化財になっています。
(残念ながらこれらの仏像は拝観することは出来ません。)


境内には「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」が祀られています。
金沢六浦の塩売りが朝比奈切通しを越えて鎌倉に来るたびに、お地蔵様に塩をお供えしていましたが、いつも帰りには塩が無くなっていましたので「お地蔵さんが嘗めたのだろう」という伝説から「塩嘗地蔵」と言われる名高い地蔵尊になったそうです。

さて、逗子・葉山に向かう交差点を渡りきりって暫く歩くと「足利公方邸旧蹟」の標識が立っています。


頼朝が鎌倉幕府を開いた当初から、足利義兼がこの地に居住し、以後2百数十年子孫達がここに住みました。足利尊氏の子、足利基氏が関東管領となり、この館で軍事を指揮した時期もあった様でが、享徳4年(1455)下総古河に遷り、以降廃墟となりました。

次に、鎌倉五山第五位の寺格を持つ「浄妙寺」へと向かいました。
この寺は先ほど標識の頼朝の重臣だった足利義兼が創建した古刹です。
山門を入ると正面に堂々とした本堂が聳え立っていました。綺麗に整備された境内は何かピンと張り詰めた空気が漂っていました。本堂横には「喜泉庵」があり、杉苔を主とした枯山水の庭園を眺めながら抹茶を喫することが出来ます。
また、本堂裏の墓地には足利尊氏の父貞氏の墓(鎌倉市文化財)があります。


竹の庭に佇む「休耕庵」は目の前に広がる竹林を眺めながら抹茶を頂けます。
今回の中では一番の賑わいでいろいろの外国語が飛び交っていました。

さあ今回最後のお寺「杉本寺」に向かいます。
杉本寺は、天平6年(734)に建立され、鎌倉最古の寺院です。三体の十一面観音をご本尊とし、鎌倉・坂東三十三観音霊場第一番札所として巡礼者で賑わっています。本堂正面には、源頼朝公寄進の前立本尊十一面観音が安置され、山門を守る仁王像は運慶作と伝えられています。


杉本寺の特長は、本堂の茅葦屋根と十一面観音と書かれた林立する幟旗と苔むした鎌倉石の階段で歴史を感じさせられます。思わず両手を合わせて拝んでしまいました。

☆ここでちょっとブレイクタイム(4)
鎌倉の4つのお寺を参拝しましたがある参加者とこんなやり取りがありました
                            (柿本幹事より)
参加者 「ここでの正式な参拝の仕方を教えてほしい。2礼2拍手ですか?」
柿本  「ここはお寺なので、合掌して一礼でよいのでは?2礼2拍手は神社です」
参加者 「神社ではないのですか?」
柿本  「神社はお宮さんのことで、ここはお寺ですから神社ではありません」
参加者 「なるほど・・・・」
周りにいた参加者「参道は真ん中を歩かないことも大切です」
参加者 「なぜ?」
柿本  「参道の真ん中は神様がお通りになるところだから我々は真ん中を避けて
通ります」「お寺では気にするということは言われません」
    「なお、神社でも出雲大社をはじめ出雲では4礼4拍手でお参りします」
    つまり、神社とお寺の違い、参拝の仕方など基本的なことを知っておく
ことも大切ですね。     

これで今回の行程は終わりとなりました。お疲れさまでした。
コースリーダーの完歩のお礼があり、次回担当の伊東幹事から来月の「調布ゲゲゲ散歩と深大寺蕎麦」ウォークの説明・参加要請があり、解散となりました。
来月の「調布ゲゲゲ散歩と深大寺蕎麦」ウォーク
   ☆社友会「メンバーサロン」から確認・申し込みが出来ます。

ここから「金沢八景駅」へ向かう組と「鎌倉駅」に向かう組に分かれて家路に向かいました。

参 加 記:有田知義
写真提供:北村卓士
     柿本政昭
     辻井 勝
     伊東哲也

懇親会(於:金沢八景イオンモール しゃぶしゃぶ牛太)参加者13名




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